加藤慶司氏による調査結果をここに簡単に記します。加藤慶司氏は鳥居の鬼コにおける調査において唯一無二の存在でございます。恐らく鳥居の鬼コには該当しないであろうものや、見逃している鬼コも多数ありますが、鬼コの歴史を語る上では欠かせない存在なのです。

◆「撫牛子の鬼コに角コない 西郷隆盛首タコない」とわらべ唄に歌われた、撫牛子八幡宮の鳥居の鬼コは、村の守護神として、いかめしく道行く人々をにらみつけている。これが津軽だけにある「鳥居の鬼コ」の元祖である。元来一の鳥居は道路に面して建てられてあり、百年前の村の御先祖様は、額束を「鬼束」とも聞いていたので、悪霊を防ぐ魔除けとして額束の代わりに鬼コをあげたのである。これを見た津軽の村々では、次々に鬼コをあげて約四十体に増えたのである。
◆いろいろな鬼コ
さて津軽一体を調べてみると、このような風習が村々にうかつがれ、且つ少しずつ変えられて次の四つに分けられる。
「強力型鬼コ」…鳥居の額束の代わりに、貫にしゃがんでふんばって肩で島木を支える型である。撫牛子・中崎等がこの種の鬼コで、一番最初に奉納されたのがこの強力型である。
「一般型鬼コ」…鬼コをあげた意味はすでに忘れられ、御利益を願う気持から鬼コをあげたもので、姿勢を楽にして金棒を持たせたりしている。鳥井野・川倉等がこの種の鬼コである。
「神像型鬼コ」…鬼コをあげて御利益を願う気持から、何時のまにか何の意味か神像型になったものである。川倉には強力型と神像型とが二つあげられている。藻川・喜良市にあげられた鬼コはこれにあたる。
「相撲型鬼コ」…相撲は神社にゆかりの深い神事であり、昔は神社のお祭りに青年相撲がよく行はれたものである。また神社の境内には、東京相撲に活躍した村出身の力士碑をよくみかける。この為か喜良市には二つあげられている。村人は、これも鬼コとよんで自慢している。
◆鬼コを奉納した理由
鬼コを奉納した理由については、神主は勿論村の古老も分からなくなっているが、私が調査した範囲では、次の通りである。
・悪霊が村に入らないように鬼の神通力を借りて(撫牛子八幡宮)
・21日の行をして女の子が授かった感謝の気持(嘉瀬八幡宮)
・大正12年、白取茂作が力試し全国大会で第二位(三千石八幡宮)
・悪い病気を防ぐための魔除けから。これは神像型(嘉瀬稲荷宮)
・約70年前人妻が神様(ゴミソ)になったので(掛落林稲荷宮)
◆鳥居の鬼コの由来(櫛引氏・片山氏の証言及びその由緒書・墓碑参照)
昔から有名なこの鬼コは、最初一の鳥居にあげられていたが、大正11年工費1500円で、白い筋の入った黒灰色の仙台石で鳥居を建造し、その上に石製の鬼コをあげたときに、最初の木製の鬼コは、鳥居のまま参道を後にさげた。このように鬼コは二つになったが、昭和26年の撫牛子大火で神社が全焼して、今は石製の鬼コだけになった。次にこの木彫の鬼コについては、櫛引五柱山の調査及び高山治助の由緒書、片山・高山家墓碑によると、明治初年撫牛子村の依頼を受けて高山玄南が作ったことがわかった。高山玄南は片山家に生まれ、工匠名明珍紀ノ宗忠俗名片山治助といい、安政五年金三両二人扶持金具師御雇兼甲冑師で、慶応三年高山家を継いだ。廃藩後剃髪して和徳高崎の法華寺の庵主となり、玄南和尚と称した。玄南は刀剣の金具・鍔・具足の面等を作り、さらに木彫にもすぐれていた。この鬼コは、鳥居の真ん中で島木を支える鬼束(当時額束のことを村人は鬼束と聞いていた。)の代わりに、悪霊を防ぐ魔除けの願いをこめてあげたという。従って鬼コをあげた、一番始めは撫牛子の八幡宮であった。撫牛子は、羽州街道沿いにあって裕福な村であった。棟方志功も生前八幡宮にきて、この鬼コを見て大いに面白がり、そのいわれを知ろうとしたが、村人誰も知らなかったので、「撫牛子の鬼、かなし鬼かな」と嘆いたという。
◆津軽一体をくまなく調査した結果
強力型鬼コ16
一般型鬼コ12
神像型鬼コ7
相撲型鬼コ3
合計38体
但しその後の台風等で二体が姿を消した。鳥居の鬼コをあげるいわれは、村人たちが悪霊を防ぐ魔除けのためであり、また神通力をもつ鬼コにあやかって、我が子や村の若者が力強く育つ事を祈願したものである。
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