弘前市青女子桜苅。県道37号弘前柏線の大蜂川に架かる新大蜂橋のすぐ近くになります。岩木川中流左岸の河岸段丘上に位置し、戦国期には「青子」とも記されました(天文年間の津軽郡中名字に鼻和郡のうちとして青子(アヲナゴ)と見えます。津軽一統志)。また、「青湖」とも称したことがあり、地名の由来は新和村史によりますと、寛治元年の白髭水の大洪水でできた、水の青く見える湖があったことに因むと伝えます。集落の西側を南北に土淵堰が流れ、集落の南端を大峰川が岩木川へと注ぎます。

社号標「村社日吉神社」(明治39年10月16日氏子中)

江戸期からは青女子村。津軽郡鼻和庄のうち。弘前藩領。寛永17年の津軽百助宛3代藩主津軽信義黒印知行宛行状に当村名が見える。村高は,「正保高帳」212石余,「寛文高辻帳」666石余,「貞享4年検地水帳」1,222石余(田1,076石余・畑屋敷145石余),「寛保高辻帳」666石余,「天保郷帳」1,147石余,「旧高旧領」1,340石余。弘前城下から十三湊へ向かう十三街道沿いに立地し,集落は南北2つに分かれている。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「桜かり・かつら川・有原・よし野」があり,反別は田103町1反余・畑屋敷27町7反余(うち屋敷3町9反余)の計130町9反余,このうち田は上田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定されていた。このほか11町6反余の留林があり鷹待場とされており,漆木は1,578本。元禄3年には藤代組に属し,村位は上(平山日記)。江戸末期の御道書明細によれば,戸数95,人口689,駒100。文久4年の御領分中道程駄賃定によると,十三街道沿いの種市村までの距離は16町10間,駄賃は本荷が夏10文・冬13文,軽尻が夏7文・冬9文,歩行夫が夏5文・冬6文,または弘前城下までの距離は3里,駄賃は本荷が夏68文・冬88文,軽尻が夏46文・冬60文,歩行夫が夏34文・冬44文。村内の寺社は「貞享4年検地水帳」によれば,大蔵大夫抱えの八幡社と甚之丞抱えの薬師堂・山王堂が見える。このうち八幡社は地内桂川にあり,祭神は誉田別命,寛永8年笹森仁左衛門の建立といわれ,明治6年村社に列せられた(弘藩明治一統志)。また山王堂は地内桜川にある日吉神社を指し,祭神は大己貴神・天穂日命・事代主神,貞治3年大和国南都の田村作ノ丞が建立し,永正年間大浦光信が再建したと伝え,明治6年村社に列せられた(同前)。また明治初年の「国誌」では,この日吉神社の相殿には地内の八幡宮・稲荷神におよび,大川村より遷座した熊野宮・稲荷神が祀られていた。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年中津軽郡に属す。「国誌」によれば,村内は南の上青女子と北の下青女子の2つに分かれており,戸数は上青女子59・下青女子74の計133,土地は中の上と見える。同12年の「共武政表」によれば,戸数137・人口889(男461・女428),馬82,物産は米・大豆・小豆・菜種・麦・藍・荏。明治9年種市小学が開設されたが,同12年に種市村へ移転した。また同13年自修小学が開校し,同15年には青女子小学と改称。同20年には青女子簡易小学校と改めた(県教育史)。同22年新和【にいな】村の大字となる。
石灯籠一対


一之鳥居。
二之鳥居・三之鳥居(平成14年旧6月16日)

鳥居跡。

社殿前参道。
石灯籠一対(明治33年旧6月16日)


狛犬一対(除厄記念、昭和10年7月)
平和祈念(昭和32年11月10日、参道奉献、九十翁高山松堂書、氏子總代舘山紋蔵、相馬象次郎、舘山慶吉、舘山角一、舘山常五郎、神作次郎)

御神馬

石灯籠一基

手水石

社殿。由緒等については前回の記事も参照ください。
前回の記事:『日吉神社 (弘前市青女子)』

末社。何かはわからず。

石塔二基(読み取れず。台座紀年銘昭和46年旧6月16日奉献)

二十三夜塔(嘉永7甲寅年7月23日講中)

庚申塔(弘化2乙巳年7月朔日村中、講中:相馬伊右衛門、中田善九郎、舘山角左衛門、舘山孫左衛門)

庚申塔(嘉永7甲寅年7月23日村中)

奉勧請猿田彦太神(文化5戊辰年6月16日)

こちらは読み取れず。

日吉神社由来碑…『惣山神宮創設 貞元2年(977年)、山王堂 寶暦己卯年(1759年)祠官舘山兵次、山王宮 享和3年(1803年)祠官舘山兵部、文久2年(1862年)祠官舘山信濃、日吉神社(山王宮跡地・現在地より西に100米間青女子字有原弐拾弐番地中央に現在も守神)明治3年(1870年)山王宮から日吉神社に相改。青女子字有原から現在地桜苅403番地に移転。明治6年4月村社に列す。祠官舘山俊吾。』・裏面碑文…『祭神:事代主神、大己貴神、天穂日神。小笠原良昭、平成6年4月吉日。町会長舘山栄之進。氏子総代下山正三、佐藤巳三郎、中田正昭、下山久男、舘山準治、舘山善治郎』









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