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上北郡おいらせ町上明堂。
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浄土宗元壽山慈光院法運寺。御本尊阿弥陀如来。
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参道。
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鳥居。
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稲荷社。
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石殿。
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参道を進むと右側に戦没者慰霊碑が200基以上並んでおります。
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その横に六地蔵。
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下田町(現おいらせ町)中心部にある法運寺は明治13年創設のお寺です。下田町は江戸時代には共同墓地のない部落でした。百石町に寺院がなかったので百石村開拓の始祖と云われている屋号(ヤマサン)三代目三浦官左衛門平義良(儀助)が明治13年6月、浄土宗東部管長、(芝増上寺住職)福田行誡大教正が明治天皇東北行幸前年に地方民教化の指命を帯びて八戸の天聖寺等に来ました際、八戸の十三日町の豪商油商橋本長助(天聖寺副壇頭兼教会総長)宅に妻千代と共に滞在し、3日間大教正より法話を聞き、元より信心深い人でしたが、それまで以上に三宝への帰依を深く肝に銘じました。百石村の開発も軌道に乗ってきたので、人心の教化と民心の安定のために寺院を建立したい旨、言上申し上げたところ、大教正深く感賞せられ、自ら山号、寺号を官左衛門に賜りました。土地の寄進、建築、その他の経費も莫大でしたが、村人と相謀り同年に工事に着手。官左衛門自ら監督して工事を督励した結果、明治14年12月、本堂七間半に奥行五間半及び六間半に五間の庫裡が完成。境内は二反四畝、周囲には桜樹を植えました。大教正自ら第一世となられ、同年12月9日に大本山増上寺より本尊の阿弥陀如来、観音、勢至菩薩三体の仏像が寄贈されました。入仏式には浄土宗南部領の本山盛岡大泉寺住職、少教正勲誉琇宏上人(当山第二世)来寺され、式典は極めて盛会裡に行なわれたといいます。尚永久維持の十箇条の教命を下されました。建立される以前は、二間四面の庵寺があったといわれていますが、その創立は詳ではありません。明治17年6月13日、福田行誡大教正の木像が寄贈されています。『三浦家文書三浦庄七・明治日誌(二)』によりますと、「明治十七年六月三日旧五月十日 百石行、増上寺管長大教正福田行誡上人御木像法運寺江御下シニ付参詣可参旨御僧より申来候、本日八戸より御当着、御人院済」とあります。木像は八戸港に着いた後、1ヶ月間、八戸の十三日町豪商橋本長助宅(屋号(ヤマサン)分家三浦直吉妻トヨの実家)に安置後、法運寺に到着したと伝えます。爾来毎月十日開山会と称し、里民集まり念仏を修し三宝を奉信。また、妻千代の発願に因り私財若干を喜捨し開山会に充つるの基礎を作りました。現在木像は位牌堂の中央に安置され、開基三浦夫婦の像も本堂外陣の開基堂に祀られ、今なお手厚く敬われています。また、官左衛門は盲人の救済のためにイタコ祭(8月6日・7日)を開寺の時から催しています。当時盲人には収入源が無かったため、口寄せによって生活の糧を得させようという配慮でした。当時は寺の境内に小屋が作られ、県内各地から集まったイタコの他に芸人なども集まって歌会も催されるなど、大変な賑いであったといいます。比較的歴史の浅い寺ではありますが、寺宝ともいうべき古いものが残されています。有名なのは盲心経の原版で、般若心経の全文を絵で描いたものです。木彫りの原版が残されているのは当寺だけであると云われています。また、明治39年12月に本堂の一隅に三十三観音(中国製石仏三十三観音)を安置。紀元前のものと見られる中国製の石仏もその一つで、高さ1mほどの観音像と見られる五体が見事に彫られています。当時中国天津の税関長をしていた石井孝助が寄贈したもの。なお、本堂欄干に描かれている十数枚の壁画は開寺当初のものです。
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昭和27年4月改修のため起工、3年3ヶ月を費やして本堂大改修を行い、一部増築を行っています。その後、大改修のため昭和45年5月17日に準備委員会を発足し、同月23日新総代及び世話人組織会、同月30日建築委員会を開き、法運寺興隆事業と名付けました。この興隆事業は明治の廃仏毀釈の中にあって毅然として自ら起ち、仏教界に蘇生し仏教興隆の礎を築き近代の名僧智識とうたわれた、開山上人福田行誡大教正台下の遺訓にかない財を傾けて当山創建につとめ専修念仏に生涯を捧げた開基三浦官左衛門の志にそうものと信じて疑わないのであるとの趣旨で、檀家に広く呼びかけて出資額5,353万円が集まり、位檀家数1,390戸、位牌堂新築、本堂改修、庫裡新築、天徳寺住職開基三浦官左衛門墓碑銘建立、新築総坪数263坪、改修及修理延坪数百坪、新墓地及山内整備を含め総工事費5,247万円を費して、昭和46年12月21日大本山増上寺法主大僧正大野法道台下檀信徒一同に会し、浄土宗開宗800年記念慶賛大法要及落慶式は盛典を極めました。この時の責任総代は昆久米太郎。昭和30年7月28日に当寺第五世簗田真教上人が「其寺、中興の号」を授与。また、芝増上寺法主大僧正推尾弁匡台下が酒造業村井松三郎宅に宿泊の際、秋田杉、柾目板に書いた「般若心経」を村井松三郎より寄贈され、天井に張り付けられました。
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明治以前の墓標調より…宝暦1、安永1、天明4、寛政3、文化6、文政12、天保14、弘化2、嘉永13、安政7、万延2、文久6、元治5、慶応9となっています。最古の墓碑は宝暦4年百石町大工町小向千代志家の先祖。
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香炉台。
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供養塔。
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手水石。
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三浦義良翁墓碑銘…『翁名義良姓三浦氏稱官左本縣五戸人移居百石地素荒蕪翁移家以来専務開墾未三年十室成居百穀播野旧藩主南部君賞其功特賜二百石云翁性慈善毎憫貧救窮莫所不至又建神祠開佛寺故里中人皆称之曰須達長者余甞巡化陸奥因入寺法談三日知其為上善人也明治十五年﨟月十日病卒年六十三矣妻千代貞順承夫志克勤二世云銘曰 開柴桒里 創栴檀林 給孤周急 長者志深 従士帰農 居家奉佛 其世出世 謂能事畢 明治二十年八月東京天徳寺義應撰』
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三浦官左衛門四代の御霊廟。
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