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岩手県九戸郡洋野町大野第8地割。
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鳥居神額。
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参道。
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参道石段。
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社殿。
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資料(新編八戸市史)では又右衛門が奉納した御神燈一対とあります。但し、一基には「天保六乙未七月」と見え、もう一基には「大正十四年旧六月」とありました。確かに資料に紹介している写真ではこの石灯籠でしたが、発起人名も「野田米吉」(たぶん)と見えます。色々謎です。
7
7.5
大野村又右衛門と大野村晴山家…『(前略)八戸藩の鉄山経営者として名を残した人々を紹介しよう。まず、大野村の又右衛門が挙げられる。又右衛門は、元禄六年(1693)に領内の鉄類問屋を一人に命じて欲しいと願い出た。礼金として20両を前納し、それ以上の売上があれば折半ということにした。又右衛門はこうして鉄問屋を認可され、しばらくその名が鉄類勘定などに関連して見えているが、鉄山を直接経営した様子は見えない。しかし、鉄の販売権を一手に握ったのだから、鉄山師たちも実質的に又右衛門の支配下に入ったと思われる。大野村の又右衛門が鉄問屋として見えるのは寛延3年(1750)までで、宝暦元年(1751)に久慈の人物が製鉄願いを出した時には、鉄問屋として大野村の文四郎が署名している。文四郎の養子に吉三郎がいるが、後に分家した。安永五年(1776)に文四郎は苗字帯刀御免の待遇を受け、晴山と名乗った。そして寛政三年(1791)に晴山文四郎と大野の小八郎は翌年から四年間、鉄山の吹方を命じられた。同八年に吉三郎は、大谷鉄山と高森鉄山を文四郎と経営することになり、好成績を上げた。その後、吉三郎が支配人に命じられた。この後、浜谷茂八郎が鉄山の一手経営を許可され、一時晴山は鉄山から手を引いた。文化三年(1806)に文四郎は、大谷鉄山の経営を願い出て許可されたが、礼金を上納できなかったため、鉄山を取り上げられ、経営は浜谷茂八郎に戻された。しかし浜谷は文政四年(1821)に鉄山証文を返上したので、経営は八戸城下の西町屋(石橋)徳右衛門と吉三郎に任されることになった。また吉三郎は同六年に葛󠄀柄と青笹鉄山の支配人に任命された。そして天保五年(1834)に一揆が起きると、野村軍記は責を負って失脚し、西町屋と吉三郎は鉄山から手を引き、軽米町の元屋五郎助が鉄山を経営することになった。だが、これで晴山家が鉄山から完全に手を引いたわけではなく、文久元年(1861)には吉三郎が水沢鉄山に、また同族の弘治が旭山鉄山に関わっていた。明治に入っても弘治の名が見えている。』
8
8.4
8.8
雷電神社の由緒等については調べておりません。旧大野村(現洋野町大野)の夏祭りは8月17日から3日間行われて、中日には北奥羽ナニャドヤラ大会で県内外から踊り組を集めます。神輿を出すのは鳴雷神社で雷電神社は御仮屋になっています。
9
9.5
拝殿内。
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オシャレな灯籠一対。
11
11.5
本殿両脇に獅子頭(権現様)がありました。裏には棟札も見えます。
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棟札は結構たくさんあったので、これらを読めば色々とわかるかと思います。もしくは鳴雷神社の方を訪ねれば由緒等についても色々と知っていそうですね。
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本殿脇の小祠。何かはわからず。
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