1
岩手県九戸郡洋野町大野第9地割字石ノ堂。立派な一之鳥居は昭和44年8月17日寄贈(有限会社長根工務店長根武・社員一同)。
2
藩政時代は八戸藩主南部公からの尊崇も篤かったといいます。旧大野村鎮守で「雷神さま」の愛称で崇敬されています。京都上賀茂の賀茂別雷神社(元官幣大社)の今宮として、明治4年3月に村社昇格。
3
二之鳥居。
4
社号標(神社本庁総長田中恆清書、奉納平成23年8月17日百鳥富彦敬白)
5
江戸期以降の大野村は九戸郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年から八戸藩領。久慈通大野名主組に属します。元は阿子木村と共に一村でしたが、寛文年間に分かれて2か村になったといいます。地内の寺社は曹洞宗来迎庵、鳴雷神社、大日孁神社。来迎庵は天明年間の創建と伝え、嘉永年間に円通山の号を得ました。鳴雷神社は宝暦8年の勧請と伝えます。延宝元年当地産の鉄28貫目入4駄、同2年13駄をそれぞれ津軽へ移出した記録があります。元禄6年又左衛門が領内の鉄問屋を一手に引き受けました。宝暦5年には凶作のため阿子木・帯島・水沢の3か村と共に困窮を訴えて、藩へ味噌125貫の拝借を願い出ています。同6年の飢饉では餓死者90・行方不明79・明き家33。安政2年の馬改では1,676頭。当村は高原地帯に立地しており三陸特有のやませの影響を受けやすくて不作になりがちでした。寛政2年及び天保5年には百姓一揆が起きています。高山彦九郎が沿岸防備の視察旅行の途中に当地を通過し、その惨状を「北行日記」に記しています。
6
明治4年八戸県、以後弘前県、青森県、盛岡県を経て、同5年岩手県に所属。同9年明戸・向田・林郷に小学校開設。同12年北九戸郡に属します。明治8年に大野小学校が開設。同12年の村の幅員は東西3里13町・南北2里28町、税地は田4町余・畑522町余・宅地24町余など計560町、戸数362・人口2,148(男1,102・女1,046)、牛131、馬769、職業別戸数は農業325・工業11・商業23、物産は牛・馬・米・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・大豆・小豆・麻糸、砂鉄鉱8、地味は赤土・黒土、他に黒土交りの石地で上中下位錯綜するといいます。字横峰沢には天正年間大野弥五郎が居所とした東大野館古跡があります。明治22年大野村の大字。
7
参道石段。
8
8.5
社殿前参道。
9
手水舎。
10
「洗心」(お白石奉献岩手縣団長、神社廰理事一條善人謹書)
11
手水鉢2基。
12
1基は一部破損していますが、こちらは浜谷(濱谷)氏が寄進した手水鉢(縦41cm×横87cm)です。
13
13.5
浜谷(浜屋)茂八郎は、享和2年(1802)に八戸に姿を現し、鉄山経営に乗り出します。この頃は晴山が鉄山を経営していましたが、浜谷の力は大きくなるばかりで、晴山は「飛ぶ鳥も落るほどの勢いで、拙者共は諸事はなはだ迷惑の筋ばかり多く、困っている」と書き残しています。大野村に住み着いた浜谷は、礼金を釣り上げ、ついに藩内の全鉄山を支配人として一手経営するようになりました。更に鉄加工業の鍛冶業や鋳造業にも手を伸ばしました。また船も所有し、海運業にも乗り出していました。浜谷は鉄山支配人を文政4年まで務めます。鉄山の利益は大きく、この利益に目を付けたのが、文政2年から始まった藩政改革の推進者野村軍記。浜谷から鉄山を取り上げるのは容易ではありませんでしたが、西町屋と晴山に相談し、浜谷の鉄山証文の期限切れを待って、鉄山を藩営にすることに成功。
14
14.5
洋野町指定有形文化財…『大日霊神社 文政8年俳諧献額一面 同文政9年俳諧献額一面 指定日平成27年6月29日 指定理由…八戸藩・盛岡藩領内などの著名な俳人の句が掲載されている額(額は事情により鳴雷神社拝殿に掲示されております)洋野町教育委員会』・『鳴雷神社 文政6年俳諧献額一面 指定日平成27年6月29日 指定理由…八戸藩七代藩主信房公の句が記載され、年号が入った額では初の確認である(拝殿に掲示されております)洋野町教育委員会』
15
参道。
16
狛犬一対(平成30年8月17日、洋野町大野第11地割3番地、長根長三・八千代、長根末太郎・和子奉納、施工千葉県株式会社正倉院会長佐藤功)
17
17.5
石灯籠一対(昭和5年9月9日、旧7月17日)
18
18.5
祓戸大神鳥居。
19
祓戸大神。
20
祓戸大神の説明。
21
21.5
御神木。
22
22.5
1本の御神木の根元に鳥居と古い神額がありました。かつてはここに石殿がありました。石は力石とのことです。
23
神額は恐らく「鳴雷神宮」かと思いますが上部は読み取れないため憶測です。
24
小祠(摂社)もありましたが何かは不明。その他力石もあるようですが見逃したみたい。
25
古札納所。
26
神楽殿。
27
中央の神棚に神宮大麻が見えました。
28
大黒天、恵比寿天、布袋尊の像などもたくさんありました。
29
猿田彦神社。
30
玉垣(奉祝第62回神宮式年遷宮、平成25年6月吉日、施工百鳥石材店)
31
31.5
授与所。
32
狛犬一対(昭和6年旧7月17日、九戸郡大野村、納人晴山時男43才、同野田富藏36才、八戸市大工町石工上口安太郎彫刻)
33
33.2
33.4
33.6
33.8
手水石。
34
社殿前から見た参道。社殿前から見た参道。五色の吹き流しは平成29年8月16日のもの。
35
祭器庫(第62回神宮式年遷宮記念事業新築)
36
こちらの建物は不明。
37
社殿(昭和18年竣工)
38
御祭神は鳴雷大神。例祭日8月17日。現存する最古の棟札は宝暦8年9月22日(「遷宮導師興観山南覚院 供養攸 口風雨順時日月清明五穀成就信心施主安全村里栄盛 干時寶暦八寅九月廿二日 別当 文正」)ですが、地域の豪族大野弥五郎が天正年間に建立したと伝わります。神社に献納されている俳諧献額は文政6年のもので、八戸藩第7代藩主南部信房公の句をはじめ、71首の歌が掲載されており、江戸時代に地域に俳諧文化が栄えて、神社が句会の場であったことがわかります。藩雑記によると「大野七村の村長と仰がれし大野弥五郎の古砦にて東大野に在り、大手前は神明坂、搦手は壕址を存せり、館の西南小高きところに馬場の址を止めリ、今なお武器を掘り出すことあり、大野弥五郎九戸政実に一味して遂に亡びたり」とあります。細かな家系は不明ですが、大野の弥五郎は大野七ヶ村の酋長として大野にあったといわれています。現在の東大野地区、神明様がある小高い山の上に居を構えていました。その大野館跡には、堀の跡が残っており自然の地形を利用した館でした。
39
唐破風懸魚、蟇股(上部は風神雷神、下部は龍、昭和28年8月青森市浦町中村隆造)、木鼻、海老虹梁、組物、脇障子(唐獅子と牡丹※1つは倒れていました)、十二支等々。額板には歴代例大祭執行役員名。
40
40.1
40.2
40.3
40.4
40.5
40.6
40.7
拝殿向拝。
41
神額(大野村長佐々木祥吉謹書)
42
拝殿内。絵馬として、天保14癸卯夏4月吉辰(金子丈右衛門敏明)、寛政8年(奥寺又右衛門)、寛政8年(八戸三日町近江屋平蔵)寛政10戌午季夏望月(晴山忠五郎)、弘化3丙午3月17日(明戸村堀米重三郎、大野村晴山吉三郎)、万延元年(山形屋米蔵)、文化12乙亥卯月日(晴山氏)、安政2年卯季初秋7日(晴山武吉、宗次郎)、安政3年7月17日(志和住人高橋庄助)、大正3甲寅年9月6日奉納(九戸郡中野村大字小子内、元歩兵軍曹勲七等川﨑富藏)、嘉永3庚戌年7月吉日奉納の剣絵馬(観世音菩薩)、明治33年12月(長内象一郎)、明治42年9月8日(晴山吉三郎)、大正3年甲寅歳9月6日(中野村小子内、川崎富蔵)、大正8年旧8月17日(野田米吉、目時キリ)等々、その他、掛軸「瑞祥」(昭和3年旧7月13日晴山時男)、献額「常豊山」(文化10年癸酉7月17日)、大正天皇御大典参列記念絵画(大正4年11月10日)など色々あります。
43
神社庁より…『宝暦8年(1758)9月勧請という。京都上加茂の別雷神社(元官幣大社)の今宮として明治38年(1905)3月村社に昇格した。旧藩時代には、藩主(八戸藩主)南部公の尊崇も厚かったという。僻村の地方神社としては著名で、遠くは江戸の商人和泉屋甚兵衛は文化14年(1817)4月、石造の狛犬一対を社前に奉納しご神徳をたたえている。また隣接の八戸・久慈・中野村等の崇拝も厚く、幕末期に彼等より奉納された木製大形絵馬5、6枚が掲げられており、ご神徳がしのばれている。自然現象を畏れ敬い、雷神(鳴雷)を祭神とする信仰は、荘厳な神格ある別雷神の威望を傷つけることなく熔合し、御神徳いよいよ昂揚し、我が大野村では大昔より天災・地災・火災等のあったことを聞かない。祭典は毎年5月17日より3日間執行されているが、慶応2年(1866)より、祭典に際し神輿の渡御の行列が荘重に執り行われ、多数の拝観者が沿道にならび、街はことのほか賑う。』
44
幣殿・本殿覆屋。
45
45.5
本殿前石灯籠一対。
46
46.5
本殿前狛犬一対(文化14年丁丑4月吉日)
47
47.2
47.6
47.8
施主:江戸、和泉屋甚兵衛、同兵助。
48
48.1
48.2
48.4
48.6
48.8
和泉屋甚兵衛は江戸佐内町(日本橋)三都飛脚問屋。吉村甚兵衛。内国通運会社(日本通運の前身)の初代頭取。和泉屋兵助は江戸の商人で高木兵助であると思われます。高木は久慈の人とされていますが、大野に過去帳と墓石があり、過去帳に江戸佐内町兵助とあることから大野の人と考えられています。
49
五訓之森(紀元二千五百九十五年三月建立、中村孝太郎書)
50
50.5
こちらは不明。
51
51.5
石灯籠一対(嘉永7甲寅7月27日)
52
52.5
顕彰碑(岩手県知事千田正書)
53
裏面碑文…『西南の役、日清日露戦役、満州事変、支那事変、大東亜戦争に際し祖国に殉じられたる郷土出身百八拾二柱のみ霊よ われら今日あるは諸霊に負うところ多し 諸霊が愛国の至情を後世に伝えみ霊を慰むるはわれらが責務なり。されば本村鎮守のおわすここ雷神の森にわれら村民の平和への願いと慰霊の誠をこめて碑を建立す 希くは とこしえにこの霊地に鎮まり村の前途を導き給らんことを 昭和四十一年十一月三日 大野村長柏木榮治郎 大野村慰霊碑建設委員会委員長奥寺米吉 書 三戸 奥正二 石工金田一 上戸末治石材店』
54
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ