秋田県鹿角市八幡平大里川原。大里自治会館隣。大里村は南北朝期から見える村名です。「鹿角由来記」には「大里村、大里上総領知。知行高千石、本名阿保。館有り。京都へ遣わされ候上使頭、丹治氏」とあり、武蔵から来住の安保氏の惣領の本拠でした。「八戸系図」によりますと延元元年に尊氏党の浅利氏・曽我氏らと対抗し、南部氏と結んで奮戦した成田小次郎頼時は、大里城(大里館)を包囲されましたが、興国元年には曽我真光の居城津軽大光寺城を攻撃。南朝方で活躍した大里氏は、戦国期末には九戸政実の乱に大里親基が九戸勢として参加し陸奥国栗原郡で自刃。大里館は壮大で安保・成田両氏と関係があったことになります。江戸期以降は鹿角郡花輪通のうち。南部藩領。邦内郷村志によりますと、蔵入高438石余・給分采地282石余、馬127、戸数61(うち枝郷に当たる玉内・山田・追搦分10)。曹洞宗福用山大徳寺は柴内万松寺末寺で、盛岡報恩寺支配(「鹿角のあゆみ」によりますと寛永13年創立)。観音・牛頭天王・地蔵堂が祀られています。天保郷帳では720石。「奥々風土記」によりますと大里駅は鹿角郡内五駅の1つでした。地租改正を機に明治9年宮麓村の一部となります。
石灯籠2対(昭和62年11月吉日・明治34年7月19日)。


狛犬一対(昭和20年7月吉日・願主安保忠孝)。
御神木。


社殿。上記のように歴史深い地の一部ではありますが、当神社の創建については不明。由緒については下記の境内案内板を参照ください。

大里川原稲荷神社の祭典(大里川原稲荷神社先祓舞・市指定無形民俗文化財)は、当初2つの旧家の間を、道中に提灯などの飾り付けをし、神輿の巡幸だけを行っていました。太平洋戦争以前にも先祓舞が「道中を清める」意味で、御神輿の行列前に舞ったこともありましたが戦争のため中断。戦後再現されたのは昭和24年頃で、現在の八幡平市兄川地区に部落の代表者が出向いて先祓舞を伝承し、翌年より大里川原稲荷神社先祓舞となりました。演目は1年間の農作業やそれにまつわる神事などを12種類の舞演目に分類して表現。8月15・16日の稲荷神社例祭(平成5年までは18日と19日)にあたり、15日の宵宮には稲荷神社境内の広場、16日の本祭には集落内の要所を移動した後で神社に至り、社を3回舞い回り、神事の後で先祓舞全演目を奉納。

拝殿向拝。正面両側にドアがあります。面白い造りですね。
拝殿内。

境内案内板より…『■川原稲荷神社の由来…当社の創建については、明確に記したものが無く、残念ながら不明である。最も古い記録は、江戸時代の延享3年(西暦1746)に修理をしたとされるものである。天明2年(1782)に大里に領地を有していた中村小次郎が、社殿を再建し、社領として大里村大柳に東西15間、南北14間ほどを寄進したとされる。正一位の神位は、大里村の住人である作助が明和4年(1767)7月と文化元年(1804)に京都の伏見稲荷の神職家より頂戴したものである。文政10年(1827)に大里村の三太が白川家より、弘化2年(1845)に善治郎が伏見家より、嘉永元年(1848)に源右ヱ門が伏見家より、慶応元年(1865)に半九郎が伏見家より、それぞれ御神号(いわゆる御神体)を頂戴した。■川原稲荷神社の説話…昔々、南祖坊との戦いに敗れ、十和田湖を追われた八郎太郎が、生まれ故郷の鹿角を湖にしてしまおうとして、男神と女神の間の米代川を堰き止めようとした時、鹿角の神々が集まり相談して八郎太郎を追い出した。その時、大里の稲荷様は、五の宮山麓の歌内沢の奥に鎮座していて、鹿角で一番高いところにいるので自分には関係ないからと、この相談に参加しなかった。その後、大雨が降り、稲荷様は、現在地まで流されてしまった。そこで、今では、鹿角で一番低いところに祀られているのだと伝えられている。撰文安部良行』

神社祭典(8月16日兄川舞奉納、8月15日宵宮)。
こちらは鹿角市歴史民俗資料館(旧鹿角郡公会堂)の大里川原稲荷神社先祓舞の説明です。







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