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青森市佃の公営青森競馬場跡地を歩きます。
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写真は青森市立佃小学校(出場する馬を待機させていた場所)とその付近。
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佃は元々大字松森の小字名でした。松森は青森平野の中央部の北方に位置しており、北流する駒込川の右岸に位置。駒込川は地域の北部で荒川と合流し堤川となって青森湾に注ぎます。貞享4年検地水帳によりますと江戸期には古館跡が存在しており、この地を阿部比羅夫が蝦夷平定の後に政所を置いた後方羊蹄(しりべし)の跡とする説もあります。
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江戸期以降の松森村は津軽郡田舎庄のうち。延宝8年外ケ浜の横内組内に開発された派立新田2,800石のうちの1村。はじめは古館村と称したといい、後の天保8年の郷村帳にも「松森村、古館村事」と見えます。弘前藩領で村高は「貞享郷村帳」では寛文4年以降の新田と見え285石余、「貞享4年検地水帳」296石余(田250石余・畑37石余・屋敷地8石余)、「寛保高辻帳」285石余、「天保郷帳」309石余(うち弘前本では寛政8年改出新田23石余)、「旧高旧領」493石余。「貞享4年検地水帳」によりますと小字として「佃・福田」があり、反別は田44町余・畑屋敷13町5反余(うち屋敷地1町余)。田は上田から下々田まで、畑は中畑から下々畑まで設定されていました。この他に開発可能地(田畑)9反余、漆木70本、河原地9ヶ所・8反余、永荒地(田畑)1町8反余、古館1町4反余、八幡社地と明神社地が見えます。元禄3年には横内組に属しており村位は下。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳でも村位は下。当村は水田耕作を主とする村でした。神社としては寛政3年村中で再建したという八幡宮が地内福田にあります。後に同社は明治初年の一時期、戸山村砥山神社に合祀されています。他に明神社がありましたが詳細は不明です。明治4年弘前県を経て青森県に所属。同11年東津軽郡に属します。明治初年の戸数29。村況は「卑地にして田多し、農隙流木を出すを業とす」といいます。明治12年の「共武政表」によりますと、戸数27・人口229(男129・女100)、馬34、物産は米。同22年造道村の大字となります。
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明治22年以降ははじめ造道村、昭和2年浜館村、同30年からは青森市の大字。明治24年の戸数36、人口292、厩15。明治18年に浜館小学校の学区となり昭和32年に至って佃小学校が開校。明治8年に歩兵第5連隊の練兵場が堤川東岸の地内福田の北部から東北の造道村字浪打の中南部にかけて開設されています。昭和3年に浜館村駒込・戸山地内に移転し、福田の跡地は田村牧場になります。この年は青森測候所(後の地方気象台)が字佃に移転開設。同6年に県営競馬場が佃の北東部に設けられました。青森競馬は同27年に廃止されており、その跡地は宅地化しましたが、楕円状の道路に競馬場の痕跡を残しています。明治期~昭和20年代までは旧来の田園地帯。その後青森市街地に接する北部に住宅が拡がり出し人口も急激に増加。昭和32年に佃小学校が新設。昭和25年に開校した佃中学校は同40年当地に新校舎を建設し、佃中学校と改称。昭和28年にラジオ青森(後の青森放送)が福田に開局しましたが、同じ福田の堤川~駒込川河岸にはまだ牧場があり、東南部には水田がみられました。同43年に国鉄東北本線の南方移転が完成し、南隣の田屋敷と同じく古館にまたがって東青森駅が開設。同44年一部が花園1~2丁目となります。現在は全域が市街地化しており、江戸期以来の水田と畑地はほとんど失われています。旧牧場の一部には同44年に開局した青森テレビ本社が建っています。
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Wikipediaより一部抜粋…『「佃」とは、もともと、大字松森の小字名であった。かつては水田の多い地域であった。1928年(昭和3年)地域内に青森県青森測候所(現:青森地方気象台)が設置された。その近くには佃グラウンドがあり、野球の試合場等として利用された。1931年(昭和6年)、現在の佃二・三丁目の場所に青森競馬場に竣工。翌年青森競馬倶楽部が設立され、この競馬場で競馬が開催されたが、1934年(昭和9年)同倶楽部が解散し、以降は開催されていない。戦後、1949年(昭和24年)になり青森競馬場は青森県の手によって再興されるが、1951年(昭和26年)を最後に開催されなくなった。競馬場のトラックの跡地には現在でも楕円形の道路が残っている。メインスタンドの場所は、現在の青森県総合検診センター、および青森市元気プラザの敷地である。この地域は市街地に近く、交通の便が良いため、やがて、青森市中心街に通う人々の住宅地となった。1957年(昭和32年)、 青森市立佃小学校が開校し、やがて気象台の南に校舎が設置された。その他、地域内には社宅・公務員官舎等も建てられた。佃本通り沿いにはスーパーマーケット・青森魚菜センター浪打支店をはじめとする商店等が数多く存在した。1987年(昭和62年)、佃・福田地区の住居表示実施のため、以下のように住所の表記が変更された。「佃一丁目-造道字浪打、松森字佃の各一部。佃二丁目-松森字佃の一部。佃三丁目-松森字佃、小柳字刈田の各一部」。1989年(平成元年)、青森地方気象台は花園に移転した。1998年(平成10年)、青森地方気象台の跡地に、青森市制100周年を記念し、同市100番目の公園としてつくだウェザーパークが作られた。』・『青森市近郊では1906年上北郡野辺地町に野辺地競馬場が設置され、地方競馬規則公布後の1931年まで開催されていたが、同年廃止されるとこれを機とし翌1932年、青森競馬倶楽部が結成され、東津軽郡横内村(現在の青森市)に競馬場を建設して開催したものの同年限りで休催し1934年には同倶楽部も解散、翌1935年に青森県産馬畜産組合連合会が引き継いで再開したがこれまた1937年までと短命であった。戦後は1949年から青森県主催の公営競馬として再開されたが、1951年に廃止されている。なお、跡地は現在では住宅地となっているが、道路の線形が当時のトラックの形を今に伝えており、佃小学校及佃ウェザーパーク(旧青森地方気象台跡地)は競馬場の現役時代に出場する馬を待機させていた場所である。このため現在でも青森市においては知られた存在である。』
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つくだウェザーパーク。
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平成10年に市制100周年記念事業として作られたつくだウェザーパークは、昭和3年から平成元年まで青森地方気象台(青森測候所)で、その北側は佃野球場(大正13年完成、収容人数1千人以上)があった場所です。
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「縄文の杜・みらいの森 青森市制100年(平成10年)」
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碑文(平成10年10月25日、贈番地銘石)…『【公園の名前を考えた人】青森市立佃小学校2年伊藤千穂さん【公園づくりの夢を実現させた人たち】東部第6区連合町会、佃本通り商店街、FMK夢ショップ、佃小学校の児童のみなさん【公園づくりを応援した人たち】青森商工会議所青年部、まち未来委員会、都市ビジョン委員会、青森ワークショッパーズ、北原啓司、高坂幹、弘前大学住居学研究室のみなさん』
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佃気象台町会。
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まずは地図確認。
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はっきりとわかります。
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国土地理院(1961~1969)
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国土地理院(1974~1978)
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昭和6年青森市勢一覧表(歴史資料室蔵)。競馬場の他、佃グラウンド、練兵場(陸軍歩兵第五連隊)、射的場などが見えます。
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それでは歩いて行きましょう。
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青森市立佃小学校から左回りに歩いて行きます。
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方向音痴なのでたまに電柱を確認します。
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緩やかなカーブと直線。
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道路以外の痕跡は皆無かと思いますが。
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たまに地図と電柱を確認しながら。
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不自然なカーブが続きます。
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青森競馬場は昭和6年7月に浜館村に竣工し、第1回は昭和6年8月1日から3日間開催されており、初日から快晴に恵まれ、約2万人の競馬ファンが押し寄せて超満員であったといいます。繋駕競走も行われていました。
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なお、昭和7年には大凶作の救済策として競馬場付近に飛行場を建設する計画もありましたが、村と地主の反対により飛行場は油川に決定されています。
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競馬場は僅か3年ほどで休催となり、戦後の昭和24年(1949)に農地となった土地を整備して再開するも、赤字が続いて昭和27年に再び休止に至り、そのまま廃止となりました。
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その後、市街地拡大に伴って跡地は宅地として開発されましたが、コース跡はそのまま道路となり、現在に至っています。宅地を確保する際に次々と住宅が建設されていったため、行き止まりの道が多く残されております。
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青森市健康増進センター(元気プラザ)。かつてのメインスタンドです。
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昔は「競馬場まで」といえば元気プラザ付近に到着したそうです。
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ほんと何も見つけられません。
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1周1マイル(約1.6km)のゴールが見えてきました。
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青森市立佃小学校まで戻ってきました。
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私は芝適性のマイラーなのですがレコードタイムは25分くらいでした。どうやらアスファルト化、信号、重量、シャドーロール(マスク)が大きく影響したらしく、特に新型コロナウイルスによる長期自粛により体重も大幅に+になっていましたので、あくまでも参考レコードということで宜しくお願い致します。
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