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秋田県横手市新坂町大鳥町。大鳥公園(横手市大鳥町)。大鳥井山遺跡は小吉山及び大鳥井山の2つの独立丘陵上に立地。北に位置する小吉山は面積73.400㎡、標高77m。南側の大鳥井山は面積26.300㎡、標高80mで、西側の低湿地からの比高24m。両丘陵の東側にはやや低い平坦地が存在し、江戸時代の羽州街道が南北に走るほか、街道と小吉山の間に昭和50年代まで溜池が存在しました。街道の東側には別の独立丘陵が存在し、大鳥井山遺跡とほぼ同時期の遺跡(台処館跡)が立地。その東側に熊野神社が立地する独立丘陵、溜池(明永沼)が続き、遺跡から約1kmで奥羽山脈の東麓に達します。遺跡の西側を横手川が北流するほか、北側を吉沢川が、南側を明永川が西流してともに横手川に注ぐため、東側以外は河川によって取り巻かれる格好となっています。このため小吉山北側・西側及び大鳥井山西側は急峻な侵食崖で、大鳥井山南側においても一部改変されている可能性があるものの約2mの段差が存在。
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大鳥井山遺跡は、横手市街地北部に位置する10世紀後半~11世紀末までの居館跡。遺跡は西・南・北を川に囲まれた独立丘陵の小吉山と大鳥井山に立地。前九年合戦の経過を述べた『陸奥話記』には、安倍正任が「初め出羽の(清原)光頼が子、字は大鳥山太郎頼遠の許に隠る」という記述があります。地元ではこの大鳥山は現在の大鳥井山周辺のことで、清原光頼・頼遠父子の根拠地であったと認識されています。遺跡の発掘調査は横手市教育委員会がこれまで11回実施し、周囲を大規模な二重の空堀により区画する防御性の高い居館跡であることが判明。小吉山は地形や大溝によって4地区に分かれ、居館の主体とみられる北側区画をはじめ、各地区で複数の建物跡(掘立柱建物跡)が見つかっています。大鳥井山は2地区に分かれ、横手川に面した平場で周囲に庇の付いた規模の大きい建物跡(掘立柱建物跡)が見つかっている。また出土遺物の大部分を占めるロクロ土師器は10世紀後半から11世紀末のもので、前九年合戦・後三年合戦の年代に符号。大鳥井山遺跡は居館の具体的な内容が把握され、特に大鳥井山ではその様相が良好に保存。また前九年合戦・後三年合戦の内容を記した文献に現れる清原氏に関連する遺跡の内容が具体的に知られる貴重な例となっています。
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【大鳥井山遺跡の時代のできごと】
永承6年(1051)秋田城介平繁成と陸奥守藤原登任とが安倍頼良を攻めるが、鬼切部で敗れる(前九年合戦始まる) 
永承6年(1051)源頼義を陸奥守に任命。 
天喜元年(1053)源頼義、鎮守府将軍を兼任。 
天喜4年(1056)①阿久利川事件(前九年合戦が本格化)②平永衡が源頼義に殺害され藤原経清が安倍氏側に走る。
天喜5年(1057)①安倍頼時、安倍富忠と戦って負傷、鳥海柵に退却し死去。②11月:源頼義、黄海で安倍貞任らに大敗。③源頼義、出羽山北俘囚主、清原真人光頼(大鳥井山遺跡)・舎弟武則に官軍に味方するよう要請。 
康平5年(1062)①7月:清原武則、一門と兵1万余人を率いて陸奥国に入る。②8月:小松柵での戦いで武則配下の深江是則・大伴員季らの活躍によって勝利。⑤9月6日:源頼義・清原武則らが安倍貞任らの衣川関を攻撃。⑥9月11日:源頼義・清原武則らが鳥海柵を攻撃。藤原経清・安倍宗任らは厨川柵に逃亡。⑧9月14-17日:安倍貞任ら厨川の合戦で敗北し安倍正任らは出羽国、大鳥山太郎頼遠(大鳥井山遺跡)のもとに逃亡。⑨9月:安倍宗任ら投降(前九年合戦終わる) 
康平6年(1063)①2月27日:清原武則、鎮守府将軍に任じられる。②5月:安倍正任、出羽国守源斉頼ら在所(大鳥井山遺跡)を囲んでいるうちに狄地に逃げたが出頭。
延久2年(1070)①陸奥守源頼俊、清原貞衡ら、衣曾別嶋・閉伊七村に遠征。
永保3年(1083)①夏頃:鎮守府将軍清原真衡が後継者として海道小太郎成衡を養子とする。②夏頃:吉彦秀武、清原真衡に反抗し、清原清衡・家衡を仲間に引き入れる。真衡出羽に出兵(後三年合戦始まる)③秋頃:清原清衡・家衡が清原真衡の館を襲撃。④秋頃:源義家が陸奥守として赴任。⑤この頃:清原真衡が急死したため、源義家が奥六郡を清原清衡・家衡に分け与える。
応徳3年(1086)①奥六郡分与に対し清原家衡が不満を持ち、兄清衡を殺害しようとする。②清衡が陸奥守源義家に家衡の粗暴を訴える。③源義家が清原家衡の沼柵を攻めるが飢えと寒さで退却。 
寛治元年(1087)①清原武衡が家衡に加勢し金沢柵に移る。②9月:金沢柵において清原武衡・家衡らと源義家・清原清衡・吉彦秀武らの戦いが始まる。③家衡の乳母の子千任が源義家を罵倒。④源義家が吉彦秀武の提案により兵糧攻めを行う。⑤11月14日:金沢柵が陥落。⑥清原武衡が斬首され、家衡は射殺。(後三年合戦が終わる) 
寛治2年(1088)源義家、私戦とみなされ陸奥守を解任。 
長治2年(1105)①2月:清衡、中尊寺一山の造営に着手。②この年以前、豊田館より平泉に本拠を移す。
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4.4
4.8
大鳥山のあらまし…『この地域は標高約70メートルの独立丘陵で、かつては大鳥井山と呼ばれていた。丘陵の南側と西側に横手川、東側を杉沢川が流れ、北西側で合流している。こうした環境は狩猟採集時代の居住地として、また武力抗争の時代には戦略拠点として利用されてきた。ここからは、旧石器時代(1万数千年前)の動物解体用の石器や、縄文時代中期から後期(3千5百年前ころ)の住居、食糧を貯蔵した穴、土器や石器も発掘されている。その後、稲作が伝わり人びとは平野部に移り住んだが、平安時代の後期には地方豪族の居城として再び利用された。大鳥井柵は、平安時代、清原光頼・頼遠(大鳥居太郎)の父子によって、この地に築かれたと伝えられる。当時、清原一族は、前九年の役(1051~62年)により、奥羽一帯を支配していた。一族の内紛に端を発した後三年の役(1083~87年)は、横手盆地一帯に戦火がひろがり、この大鳥井柵も横手市の北部にある金沢柵とともに焼失し、源義家と清衡の連合軍に敗れた一族は滅亡した。やがて藤原清衡の三男・正衡によって再び城柵が築かれ、関根柵と呼ばれた。台地を二重に巡る土塁や、空堀、建物跡、使用された土器、火災の跡などが当時を物語っている。近世になり、石棺を埋めた積石墓や十三塚といった宗教や信仰にかかわる造営も行われている。十三塚は一辺約4メートルの方形の塚を中心に、となりあうように円形の塚がならんでいる。平成5年3月横手市教育委員会・横手市文化財保護協会』
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後三年の合戦伝説めぐりマップ。
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6.5
地域に残る「伝説」を探しにいってみよう!
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順路案内。
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大鳥井山遺跡(大鳥井山西部)…『大鳥井山西部は遺跡の南西側に位置します。大鳥井山の頂上部とその周囲の斜面からなり、頂上部には約400㎡の平坦な場所が存在して、現在は大鳥井山神社の境内となっています。標高は80mで、遺跡内では最も高い場所であり、麓との標高差は約20mです。この頂上部の北東方向には尾根が延びており、南側から斜面を登ってきた参道がこれにぶつかって西に折れ、これに沿って登っていきます。その途中に3段の階段状の地形がみられますが、これは人為的に築かれた三重の土塁と堀の跡である可能性があります。頂上部から南西に目を向けると、横手川の本流が直下まで迫ります。西側全体が非常に急な崖になっていますが、幅の狭い平場が数箇所に設けられています。北側に目を向けると、大鳥井山東部地区から延びる二重の土塁跡・堀跡が眼下に見え、その向こう側に小吉山西部地区が広がります。この地区では平成20年に発掘調査が実施されました。頂上部では、古代的なつくりの掘立柱建物跡2棟、大溝跡2条や柵列跡などを検出しました。調査以前は戦国時代(15世紀後半~16世紀)前後の城館跡ではないかとの指摘もあった大鳥井山ですが、調査の結果、前九年合戦・後三年合戦の時代を含む11世紀代(平安時代後半)にもっとも盛んに人間の活動がみられ、これ以降は江戸時代(17~19世紀後半)に入るまでほとんど利用されていなかったことがわかりました。このほか、北側斜面の二重の土塁跡と堀跡も調査され、埋没していた内側の堀跡の様子などが明らかになりました。頂上部で検出された掘立柱建物跡のうちの1棟は、現在まで大鳥井山遺跡で検出された建物跡の中で最も大きいもので、四面に庇が取り付いていたことがわかっています。庇を除いた部分(身舎)では梁行が2間(3本の柱で梁を支える構造)、桁行が5間(6本の柱で桁を支える構造)で、長さはそれぞれ5.2m・9.9mです。庇を含めると、梁行は9.1m、桁行は13.7m、床面積は124.67㎡に及びます。この建物は、その構造や周辺からの出土遺物などから、11世紀前半頃に建てられたと考えられ、建て替えはされていないこともわかりました。このような大規模かつ格式の高い構造を持つ建物は、秋田県内では類例がほとんどなく、奥州藤原氏が政治をとり行った場所とされる柳之御所遺跡(岩手県平泉町)など、地域の有力者の拠点でしか確認されていません。当時この建物は、西側の麓から見上げると、急峻な崖の上に存在する非常に荘厳な施設として映ったことでしょう。また、この建物の東側(神社の前面)からは、南北に走る2条の大溝跡(幅2.3m前後、深さ0.6m前後)が検出されています。この大溝は掘立柱建物を外部から区画していた可能性もあることから、この場所は遺跡内でも特に重要な場所であったと考えられます。』
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大鳥井山山頂部の遺構配置図。
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北西から見た大鳥井山(中央)・小吉山(左)・横手川(手前)。
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四面庇付掘立柱建物跡(立っている人の前に庇の柱穴が並んでいます)。
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掘立柱建物の想像復原図。
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掘立柱建物跡と盛土跡(手前の黒っぽい部分)。
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掘立柱建物跡(左)と大溝跡(右)。
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二重の大溝跡。
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十三塚へ。
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十三塚。
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18.5
写真ではわかりにくいかと思いますが。
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19.4
19.8
十三塚…『造営の年代は明らかでないが、一辺4メートルの方形を呈する塚を中心に、ほぼ隣合うように円形の塚が並ぶ貴重な遺跡で、市指定文化財になっている。十三塚は室町時代から近世にかけて造られたと考えられ、集落の境界線上とか、丘陵上に並べられる塚で、宗教に関係あるかどうかは判らないとされている。』
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大鳥井山東部の11世紀の堀と土塁。
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21.5
横手川へ続く道。
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大鳥井山遺跡(大鳥井山東部)…『大鳥井山東部は遺跡の南側に位置します。この場所は、土塁と堀が現在でも明瞭に残っており、往時の居館の姿を体感することができます。ここでは大鳥井山神社の参道が尾根に達する付近の堀切状の地形より東側の様子について説明します。大鳥井山の尾根からは南北両側に斜面が延びますが、北側は大鳥井山と小吉山の間の沢目(現在は埋め立てられて園路になっている)に及び、南側は明永川(江戸時代初期までの横手川の流路)の手前で麓に達します。昭和54年及び平成19・20年に発掘調査が実施されています。調査面積は約2,000㎡です。調査の結果、土塁跡と堀跡のほか、大溝跡や柵列跡などが検出されました。北側斜面には、11世紀当時の二重の土塁と堀が目視できる形で残っています。このうち北側(下段)の土塁跡と堀跡は、その盛り上がりやくぼみをはっきりと観察することができます。土塁跡の幅は8.35m・高さは最大で1.6mで、堀跡の幅は11.6m(基底部で3.8m)・深さは1.6mで、底面は平らです。調査の結果、斜面を削って堀を作り、その排土を下方に盛り上げて土塁としたことがわかりました。南側(上段)の土塁跡と堀跡はほぼ埋没していますが、尾根の直下の段状の地形として確認することができます。発掘調査で確認したところ、土塁跡の幅は5.8m・高さが1.1m、堀跡が幅3.8m、深さ0.7mでした。土塁の土は北側と同様に堀の排土を盛り上げて構築されていましたが、土を少しずつ盛り上げて固める作業を繰り返していたことがわかっています。現在確実に土塁跡・堀跡と確認されているのは北側の裾野を取り巻いている上述の部分だけですが、実は大鳥井山の南側の山裾にも段状の地形が観察できます。二重の堀と土塁は、横手川に面した西側斜面を除き、大鳥井山をぐるりと取り巻いていた可能性が高いと考えられています。なお、北側斜面の土塁跡及び堀跡の下から大溝跡が検出されており、土塁等の構築以前から人々の活動があったことがわかっています。尾根部分は幅が狭く、頂上部の幅は約10m程度です。北東部には十三塚が築造されていますが、鎌倉時代以降のものと考えられており、市の文化財に指定されています。現在目で見ることができるのは9基ですが、発掘調査ではもう1基の基礎構築の跡が確認されています。このほか、小吉山西部で見られた礫石塚も含め、遺跡全域で塚状の遺構が確認されています。この遺跡は、前九年合戦・後三年合戦が終了した11世紀末頃には居館としての機能が失われ、霊場のような信仰の場に変化したようです。このことで、遺跡は後世の開発を免れ、11世紀の居館の形態をとどめることができたのではないかと考えられます。』
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案内板写真。
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24.4
24.8
市民プール。
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アスレチック広場。
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小吉山と多目的広場(11世紀の土塁跡)の間の道。テニスコート・パーゴラ広場(小吉山北部)方面。
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アスレチック広場の横に火葬墓への入口があります。
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小吉山火葬墓跡入口。
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少し登ります。
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小吉山火葬墓及び隣接して設けられた礫石塚。
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31.5
石櫃格納部分が見られます。
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32.5
小吉山火葬墓跡…『此処は大鳥井柵跡の北側尾根中央に位置し、二つの積石が並んでいる。昭和3年(1928)此処から2基の石棺が発見され、当時は人骨が入っていたといわれる。平成13年11月横手市教育委員会』
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大鳥井山遺跡(小吉山西部)…『小吉山西部は遺跡の西側に位置します。比較的低平な小吉山の中ではもっとも標高が高い区域で、頂上部には南北に延びる比較的広い平坦面があり、横手川に面する西側は急峻な斜面ですが、ところどころに狭い人工的な平場が設けられています。東側は緩やかな斜面で、段状の人工地形が一部に残されています。また、大鳥井山に向かい合う南端部にも段状の地形が残っていますが、区域内に鎮座する雷神社への参道を造成するために地形の一部が改変されています。平成21年に区域の南側で発掘調査が実施されています。調査面積は約230㎡で、調査の結果、火葬墓、礫石塚及び大溝跡などが検出されました。火葬墓の調査は、戦前に一度行われています。昭和3年1月19日に区域内にあった積石塚から2つの石櫃が東西に並んで出土したことを受け、同年3月31日に横手郷土史編纂委員が現地を確認し、石櫃の調査を行っています。石櫃には骨が納められていたとされていますが、副葬品などについてはわかっていません。これ以後、積石塚は小吉山火葬墓と呼ばれるようになりました。火葬墓は現在も直接目視することができます。土を方形に積み上げ、その表面に石を敷き詰めています。石は川原から採取したと考えられ、人の頭ほどの大きなものもあります。砕いた石で隙間を埋めている様子も観察されました。基底部の長軸は6.7m、面積は約45㎡です。高さは0.7m前後であり、断面の形は台形です。上面の長軸4.6mで、その中央東寄りに、川原石の平たい部分を内側に向け方形に配置した石組が2ヶ所確認されました。この石組にそれぞれ石櫃が埋納されていたと考えられます。石櫃にはそれぞれ石製の蓋が被せられており、合計2セット出土しましたが、片方の蓋ともう片方の石櫃のみが良好な状態で残っています。蓋は一辺が約42cmの方形で、厚さは11cmです。石櫃も一辺が約42cmの方形で、高さは約20cm、中央部分に長径24cm・短径22cmの掘込があります。石は凝灰岩質で、ノミ状の工具で削って作成しています。火葬墓の北側には南北を分断する大溝が埋もれており、土の堆積状況から11世紀中頃以降に掘削されたと推測されます。この大溝跡は火葬墓とほぼ同時期に構築されたと考えられるため、火葬墓も11世紀代(前九年・後三年合戦前後の時代)のものである可能性があります。発掘調査以前は、鎌倉時代以降に火葬墓が築造されたとの説が有力でしたが、石櫃を用いた火葬墓は古い形態であるとの指摘もあり、今後の研究に進展が待たれます。火葬墓の南側には、3基の礫石塚が並んでいます。礫石塚は火葬墓と比べると比較的小さな川原石を積み上げて作られています。塚の大きさは、長軸が1.6m前後、短軸が1m前後です。川原石の中からは、梵字のみを記した34点の経石が出土しました。この中には流れるような筆致で書かれているものもありますが、梵字をこのように崩して書くのは珍しいことです。陀羅尼経の一部が記されているとも推測されています。出土した中世陶器から、13~14世紀のものと考えられます。』
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小吉山火葬墓及び隣接して設けられた礫石塚。
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石櫃格納部分・南側礫石塚出土経石(梵字)・石櫃の蓋・石櫃の主体部。
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火葬墓西側の溝跡断面。
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小祠。
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雷神っぽい石仏が祀られていました。案内板にある雷神社ですね。手前は「五本骨扇に月丸」(佐竹氏家紋)かな。
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祠横の不明の石。石櫃っぽく見えます。
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石碑。向って左から「摩利支尊天・唐松大明神」「保呂羽山・御嶽山・高岡山」「太平山(明治4年辛未4月22日)」。
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案内板の「小吉山北部」「小吉山東部」は紹介できませんでしたが以上です。
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遠くに横手城(横手公園展望台)が見えました。
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以下Wikipediaより抜粋…『出羽国北部の横手盆地中部、現在の秋田県横手市新坂町・大鳥町にある平安時代の遺跡(居館跡)。平安時代の当地方の豪族・出羽清原氏(清原光頼・大鳥山太郎頼遠)の居城跡と伝えられている。旧横手市が、横手市新坂町・大鳥町に総合運動公園の整備を計画し、その調査の過程で当遺跡の存在が明らかになった。昭和52年から昭和58年までの約7年間にわたり発掘調査が行なわれた。その後、旧横手市が周辺町村と合併して現在の横手市となった後の平成21年までの3年間の再調査を経て、平成22年に国の史跡に指定。◆現況…旧横手市により、その大部分に当初の計画通り、遺跡を埋め戻して運動広場やテニスコート・屋外プールなどが整備され、また一部は宅地になっている。◆立地…旧横手市の市街地北部、横手川とその支流である吉沢川の合流点東側に位置。子吉山および大鳥井山という2つの小独立丘陵に立地し、川の水面からの比高は約20メートル。◆遺跡性格…巨大な二重の堀と土塁を有する、防御性のきわめて高い居城跡。『陸奥話記』によれば、大鳥山太郎頼遠は前九年合戦において安倍方の安倍正任をかくまったとされ、これを知った出羽守の軍勢は大鳥山を包囲したと伝えられる。その遺跡の姿は、奥州藤原氏初代藤原清衡が居館に定めた柳之御所遺跡(岩手県平泉町)に類似。また、大鳥井山山頂部には当時にあって格式高い建造物に限定される四面庇の建物跡が検出。築造年代は、10世紀後半に築造が開始され、11世紀後半に完成したものと考えられる。従来、武士によって築かれた山城の出現は14世紀を遡らないと考えられてきたが、それを200年以上も遡ることが明らかとなった。城郭史専門の千田嘉博は、戦国時代の城郭に匹敵する規模であることを指摘し、さらに、その防御施設は「土でつくる城の最高レベル」と評している。◆規模・構造・出土品…遺跡の広がりは南北方向に680m、東西方向に200mである。川に面していない三方向を土塁と堀で囲んだ構造である。土塁は、幅10m、高さ2m、堀は幅8m内外、深さ約3.5mと、いずれもきわめて巨大。外側から内側に向って土塁-空堀-土塁-空堀の順で、最大の空堀は幅10m、深さ3mにも達する。千田嘉博は、東側斜面の竪堀を「うね状空堀群」と呼び、従来、15世紀から16世紀にかけての時期にようやく出現する構造であると考えられてきたとしている。空堀の内側には柵列が見られ、この柵に沿って物見櫓と思われる建物跡が確認。また外側の堀に土橋が架かっていた場所が特定されたほか、掘立柱建物跡や竪穴住居跡等が検出。東北地方(特に日本海側)では希少とされる、10世紀後半から12世紀にかけての遺物が出土。豪族清原氏の存在がうかがわれる遺物としては硯や宴会用の土師質の小皿などがある。』
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