北津軽郡鶴田町胡桃舘池田。
胡桃館(胡桃舘)は津軽平野中央部、岩木川中流右岸の平野部に位置。東に五所川原堰があります。地名の由来は、過去に胡桃の林があったため、中世の館を胡桃館と呼称したことに由来します。富永遺跡は土師器・須恵器片を出土。中世の胡桃館(別称大館)跡が胡桃館集落と狐森集落(板柳町)との中間地点のリンゴ園にあります。館主や沿革など不明ですが、藤崎北方の防衛に重要な拠点となり、また開拓の拠点でもあったといいます。江戸期以降の胡桃館村は津軽郡田舎庄のうち。平山日記の寛永18年の項によりますと、同16年の下柏木村派立(後の梅田村、五所川原市)の制札に「西ハくるみ館岸より南ハ大野甚右衛門知行之岸迄」とあり、この頃には当村は既に存在していたと考えられます。枝村には相川村(享保11年中野村と改称)がありましたが享保11年に分村。村高は「正保高帳」190石余、「寛文高辻帳」1,022石余、「貞享4年検地水帳」では枝村の相川村分を除き1,239石余(田1,055石余・畑屋敷183石余)、「寛保高辻帳」1,022石余、「天保郷帳」962石余、「旧高旧領」1,295石余。東は五所川原堰、北は中野村、西は鶴泊村、南は前萢村に接します。「貞享4年検地水帳」によりますと、小字として「前田・池田・種本・富永・花岡・北原」が見え、反別は田103町余・畑屋敷36町余(うち屋敷2町余)、田は上田から下々田までで畑は上畑から下々畑まで設定されており、屋敷地は郷蔵屋敷1畝歩を含みます。元禄3年には赤田組に属しており村位は中。天明3年の凶作以後1,000石余が荒地となっており、天保5年には68石余が洪水の被害を受けたと伝えます。文政2年の卯年書上之表によりますと家数54(うち百姓27・無高26)、人数279。天保年間浅瀬石川から取水する枝川母堰と平川から取水する枝川足水堰(共に現鶴田堰)の水下に編成。神社として八幡宮があり御祭神は誉田別尊。「貞享4年検地水帳」に八幡社地が見えます。明治4年弘前県を経て青森県に所属。同11年北津軽郡に属します。明治初年の戸数75。同11年胡桃館小学が開設されており、同12年の教員数男1、生徒数男38・女3。同年の「共武政表」によりますと、戸数72・人口475(男245・女230)、馬39、物産は米・大豆・蕎麦。同22年六郷村の大字となります。


社号標「村社八幡宮」(攝政宮殿下御成婚紀念、大正13年正月15日)

社号標「八幡宮」(征露軍人建立、発起人成田和吉、御神楽寄進村中、明治37年12月15日)

一之鳥居扁額。
扁額の横に鬼コがいます。
なお、由緒や鳥居の鬼コについては過去の記事を参照ください。
御神木。



二之鳥居(大正13年)
三之鳥居。
参道。
八幡宮御造営奉賛者芳名録(昭和51年8月15日、社殿落成奉祝祭齋行)

鳩一対(昭和38年旧3月15日、発起人石村重市場、石村ヒサ、信者一同敬白)


石灯籠一対(大正6年正月15日、発起人花田善四郎、成田宇太郎、石工成田藤吉)


手水舎。

手水石(大正6年正月15日)

御神馬(初老記念、昭和5年4月15日建之)

昭和5年4月15日建立

狛犬一対(明治23年6月15日)
社殿。
拝殿向拝蟇股・木鼻・注連縄等。
拝殿向拝神額。
その両脇の鬼之像。鳥居の鬼コではありませんが、恐らくその意義としては鳥居の鬼コと同様と考えていいかと思います。
なお、この鬼については「鬼之像」とあります。刻:工藤俊雄。平成20年4月吉日。奉納:工藤俊雄、工藤光徳、佐藤啓一、工藤春男、松山清治、佐々木光雄敬白。

龍之図(平成19年3月吉日、刻:工藤俊雄、工藤俊雄・成田幸治・佐藤儀一・工藤光徳・佐藤啓一・工藤春男敬白)
龍。

本殿前石灯籠一対。


本殿。

こちらは倉庫。

庚申塔(昭和35年7月31日)

二十三夜塔(明治35年2月29日、村中、両塚發起人:工藤宇佐吉、成田和吉、工藤長市、成田治助、成田元吉、成田万藏、成田仁太郎)

庚申塔(文政5壬午年8月15日、村中、※願主省略)

庚申塔(慶応4戊辰年3月12日、慶應胡桃舘村講中)

庚申塚(明治35年2月29日村中)

庚申塔・二十三夜塔(昭和24己丑年旧3月3日)

末社。稲荷社かな。

その他末社。何かはわからず。


観音堂鳥居。
観音堂。

御神馬(昭和29年旧正月17日)

淡嶋神社へ。八幡宮とほぼ並列して建立されています。

淡嶋神社鳥居。

淡嶋神社の子宝銀杏。


案内板はほぼ読み取れない状態ですが淡嶋神社で子宝銀杏、乳房などの文字も見えることから大体内容の予想はつきますね。

淡嶋神社。

拝殿神額の横にひっそりと鬼コがいます。
八幡宮拝殿向拝の鬼之像と造りが類似しているので、恐らく工藤俊雄氏によるもので、奉納時期も同じ頃かと思われます。
拝殿内。



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