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青森県下北郡東通村尻労天神林。
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かつての志利労村。村高は正保郷村帳41石余(田28石余・畑13石余)、「貞享高辻帳」52石余、「邦内郷村志」57石余(うち畑15石余)、「天保郷帳」も57石余、「安政高辻帳」52石余、「旧高旧領」57石余、「邦内郷村志」では家数38、人数253、馬61、牛162、漁船9。産物は昆布・串貝。寺院として田名部常念寺末の池徳庵が見えます。「本枝村付並位付」によりますと、位付は下の下、家数23。家数は享保6年27、享和2年23、文政12年27(東通村誌)。人家はもと字坂ノ下の海岸に散在しており巣元千軒といいましたが、大津波の時に坂ノ下より高い所にあった2軒が助かり、その後他地域からの来住者を加えて現在の集落が形成されたという言い伝えがあります。
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地内には宝永5年に再興したという八幡宮と、元禄8年に開創された池徳庵が見えます。草分の家といわれる家にはオシラ神が祀られています。民俗芸能である能舞が盛んです。当地の生業は伝統的に漁撈に重きを置いています。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、同4年青森県に所属。
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手水舎。変わった形をしていますね。
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御祭神は誉田別命。例祭9月15日。
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宝永5年(1708)再建との言い伝えがあります。明治9年12月9日村社。昭和21年4月1日宗教法人令に依り届け出。田名部神社の記録によりますと、宝永5年に白川家で再建。伝承によりますと、元々大岩の上に社殿が鎮座し、村人もその社殿を囲むように生活していましたが、大津波によって村が飲み込まれ、村人は安全な現在地に移住。社殿はそのまま聖地として永く祀られていましたが、それを明治12年に現在地へ遷座再興。それを裏付ける明治12年の棟札が現存。その他の棟札としては宝永8年8月吉辰日(建立八幡宮本社壱宇)、嘉永2年6月13日(再建八幡宮拝殿一宇遷宮成就・勧請八幡宮御尊像安置諸願成就)、嘉永7年8月15日(建立八幡大菩薩社壇)、安政6年5月吉辰(勧遷正八幡大神遷宮悉皆成就)があります。
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拝殿唐破風懸魚・蟇股・木鼻等。
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8.4
8.8
拝殿内。尻労八幡宮はこれまで3回の火災に見舞われており、現在は右手に矢、左手に弓を持った木彫八幡神立像を御神体として祀っています。また、昭和53年まで外陣に多くの絵馬・舟絵馬が飾られていましたが、古くなって見えなくなったものは焼却したといいます。残された絵馬の中には神功皇后に嬰児の誉田別命を武内宿禰が渡している場面の大絵馬があります。
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境内社。
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稲荷大神。
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本殿裏に小祠が3つ並んでいます。その小祠の裏には、道路を挟んで緑の屋根の社殿(熊野神社)が見えます。
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向かって左の小祠。黒葉大明神です。
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棟札によりますと、大正12年9月19日建立(村中安全・別當吉野善喜)。昭和60年9月15日社殿一宇再建。
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中央の小祠。龍神神社です。八幡宮本殿裏手の霊水付近に昭和62年に蛇穴幸広家(屋号ベッケジャナ)で建立。ちなみに霊水は見当たらず。
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棟札によりますと、昭和62年9月15日造営。奉納者が蛇穴幸宏氏。神宮大麻もあります。ちなみに神宮大麻はよく見かけるかと思いますが、包んでいる薄紙は取ってお祀りするのが正式なようです。取りたくない気持ちは凄くわかります。
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向かって右の小祠。蒼前神社です。御縁日は1月20日・12月20日。昭和59年9月14日再建。
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棟札は数枚あり、一番手前の見えていた棟札は再建時のもの。紀年銘は恐らく裏面。会長の苗字は蛇穴氏。蒼前小祠は蛇穴進一家(屋号ジャナ)の祖先が産土様である八幡宮裏手に創建。馬産が盛んであった頃は村人がよく参詣に来ていたそうですが、今は静かです。当時は当蒼前神社に参拝し、必ず氣比神社(おいらせ町)にも参拝に行ったそうです。
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殉國碑。
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台座碑文…『大東亜戦争戦没者(※戦没者名省略)。昭和38年8月15日。尻勞遺族会代表中村長之助・外一同。川口桂舟謹書。』
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