弘前市種市熊谷。

社号標「村社熊野宮」(明治35年3月14日)。彫刻がかっこいいです。

灯籠一対。


燈臺奉献…『除厄記念。太田松衛、對馬正直、小山内留、奈良直四郎、田中繁三郎、小山内浅雄、奈良喜代一、齋藤藤男、竹浪幸七、田中小次郎、對馬千代衛、小山内修三、奈良柾市、田中しさ、小澤ユミ。昭和25年旧6月14日竣工』

寄附人名碑。

う~ん…読めない。社標?

皇紀記念…「二千六百年、昭和十五年、参道奉献」

一之鳥居(昭和28年旧6月14日、種市町会建之、施工者株式会社外崎組)
鳥居の鬼コ。
以前の記事も参照ください。
江戸期の種市村は津軽郡鼻和庄のうち。弘前藩領。元和年中御家臣姓名大概の83騎のなかに「百石 種市村市右衛門」と見えます。村高は「正保高帳」479石余(うち田方437石余)、「寛政高辻帳」479石余、「貞享4年検地水帳」903石余(田764石余・畑屋敷138石余)、「寛保高辻帳」479石余、「天保郷帳」898石余、「旧高旧領」980石余。「貞享4年検地水帳」によりますと小字に「いた橋・柳川・こわた・小嶋・高木・熊谷・高瀬」があり、反別は田74町5反余・畑屋敷32町5反余(うち屋敷1町5反余)、このうち田は上田から下々田まで、畑は上畑から下々畑まで設定。その他、開発場として田畑31町5反余が見え漆木はありません。元禄3年には藤代組に属しており村位は上。江戸末期の御道書明細によりますと、戸数69・人口566(男282・女284)、駒59。集落は弘前城下から野木村を経て十三湊へ至る十三街道沿いに発達。「慶安2年道筋帳」には脇道として「野木村より種市村迄廿町、種市より三世寺村迄半里」と見えます。また文久4年の御領分中道程駄賃定によりますと、当村から青女子村までの距離は16町10間で、駄賃は本荷が夏10文・冬13文、軽尻が夏7文・冬9文、歩行夫が夏5文・冬6文。野木村までの距離は1里17町41間半で、駄賃は本荷が夏34文・冬44文、軽尻が夏23文・冬30文、歩行夫が夏17文・冬22文。村内の神社として「貞享4年検地水帳」に宮太夫抱えの白山堂・熊野堂・観音堂が見えます。このうち熊野堂は地内熊谷の熊野神社を指し、御祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命。熊谷玄蕃が当村を開拓中に藩祖津軽為信の巡検をうけ、村の産土神建立の許可を得て熊野宮を勧請したものといわれており、明治6年村社に列しました。また白山堂は熊野神社に遷座された白山神を指し、御祭神は白山姫命。明治4年弘前県を経て青森県に所属。同11年中津軽郡に属します。明治初年の「国誌」によりますと戸数108、村況は「民家九丁十間の地をとめ四方に田圃あり。土は中」と記されています。同9年桂村を合併。同9年青女子村に種市小学が開設されましたが同12年に当村に移転し、同20年種市簡易小学校、同23年新和第一尋常小学校と改称。明治12年の「共武政表」によりますと、戸数130・人口788(男427・女361)、馬49、物産は米・大豆・小豆・菜種・麦・藍・荏。同22年新和村の大字となります。
御神馬(昭和14年旧6月14日、武運長久、発起人:田中斧吉、對馬兼太郎、田中溝造、田中慶吉、田中溝太郎、小山内萬助、奈良直吉。高山松堂書。石工赤石誠磨)

灯籠一対(平成14年旧6月14日)


手水石。

参道。
狛犬一対(明治33年6月14日)
御洗心舎(昭和62年6月21日)


御洗心石(昭和62年6月21日)

社殿神額。

本殿。

猿田彦大神、天鈿女命、月読尊。


庚申塔。

庚申塔(慶應元乙丑年6月27日、種市・桂村中)

庚申塔(文政5壬午年6月19日)

庚申塔(安政4丁巳年5月10日、種市・桂村中)

二十三夜塔(安政4丁巳年5月10日、村中)



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