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三戸郡五戸町天満後。参道入口は五戸町沢。資料では「下大町の天満宮」と紹介されていますが、タイトルは社殿の所在地の住所にしておきました。明治7年の陸奥国誌によりますと沢町は「家は二十三軒あって左右山高く、昔は人家もなく渓流道に溢れ、橋桟も危険で往来も希なりし所なり。渓流埋て道を作って今の如くになり。橋瓜より西に向って舘の東に至る曲折しを登る。この坂道は左右みな石あり。蛤蜊の類多し。また、小枝の石に化せしも交れり。」とあります。坂については『五戸代官所跡(歴史みらいパーク)』の記事で紹介しております。この付近の地図を見ると五戸町沢から見て南方に堀合・下大工、西方に五戸川、東方に下モ沢向、北方に天満・天満後とあります。天満という地名は天満宮ができてから生まれた地名です。天満の大地からの展望は格別であり、崖下は旧陸羽街道で明治9年と14年に明治天皇が通りました。天満宮入口には天皇御巡幸の頃に旧会津藩二番家老内藤信節が池ノ堂の開墾を諦めて漢学塾を開設しました。明治末期、同町出身の鳥谷部春汀(本名銑太郎=雑誌「太陽」編集長)の案内でこの地を訪れた大町桂月は見事な眺めに感嘆して景勝地と折り紙をつけました。天満から見える川原町の民家には次のような逸話があります。享保年間、鈴木新兵衛という百姓がおり、五戸村の水帳を預けられていました。ある夜のこと、盗賊が侵入し、新兵衛の家の入口にひを放ちます。逃げられなくなった新兵衛は水帳を土中に埋めて、その上に突っ伏して亡くなりましたが水帳は完全な状態で守られました。時の五戸代官は新兵衛の行為を聞き及び追賞しました。この話を聞いた桂月や画家の平福百穂は「土魂あるものというべきかな」と書き残しているそうです。大正14年9月には与謝野鉄幹・晶子夫妻が奥羽遊草の折、大竹保順高雲寺住職宅に宿泊し、天満の台地にて次のように詠じています。「坂多き五戸のまちの夕月夜ひとつの坂に踊る声する 鉄幹」
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さて、前置きが長くなりましたが、天満宮へと向かいましょう。参道入口には両部鳥居。
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参道。
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「坂のまち五戸まちあるきマップ」には「トレーニングにもなる!?階段坂」と紹介されていたので、覚悟して向かいましたが普通の階段でした。
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参道階段途中、右側に鎮座する沢龍明神宮。
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由緒等は調べておりません。
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階段坂でトレーニング中のカマキリ。
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階段途中の鳥居。
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階段坂の上にはケヤキの老木があり、根元に良質な清水が湧いていて、お茶の聖水として愛されていたそうですが、十勝沖地震後に治山工事が行われて老木と聖水は姿を消したといいます。
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手水舎…なのかな?それとも聖水に関連するものなのかな。
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高低差はそこそこありますね。五戸川の河岸段丘崖なのかな。
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道を挟んで…
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更に少しだけ階段が続きます。
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手水石。
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社殿前鳥居。
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社殿。
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手水石。
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御神牛一対。
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狛犬一対
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中国獅子といった感じですね。
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一番下の古い台座には「奉納 安政3丙辰年7月25日 願主伊勢屋喜代大 中村屋庄蔵 寄進大町中 世話人助七 万助」とあります。
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その上は新しいもので「昭和53年8月25日献納 寄進者和田良男、管理人代表者和田米藏、川村末太郎、田中玉範、三浦健四郎、前田正一郎、三浦金作」とあります。狛犬の状態から推測するにこちらが現在の狛犬の台座かと思います。
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拝殿向拝。
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御祭神は菅原道真公。
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明和6年2月15日に村越玄忠が書いた天満宮縁起には「明和元年、別当である実宝院や信徒総代等が京都にいき、北野の本社に神像分霊の事を請願して許された。蛸薬師通り室西へ入る町の保木藤五郎の尽力によって神号御筆を拝受した。ついで筑紫飛梅の枝をいただいて和泉式部町の石工金子宗助に頼んで神像を作った。これが今も安還奉祀されている神像である」と記されています。明治初めに廃社となった際に村の大地主三浦武助の庭園に小さな祠を設けて安置したと伝えますが、神号御筆は紛失。
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流れる五戸川より…『下大町の天満宮は一昨年改築して美しくなった。菅原道真公を祀る神社として知られている。境内左側に石像と自然石が仲良く並んでいる。石像は高さ一メートル、その碑には安政九午年三月三日、世話人助七、万助の両名が刻まれ、誰かの供養碑のようだ。その隣に自然石が座っている。釜で水をかけたら大国在天神と読めたが、年号も施主もないので何の碑か確めることが出来なかった。下大町若者頭の平武男さんから聞いた。そして記録も調べてくれたが、この碑についての文章が見あたらなかった。また、参道の中ごろに小さな祠があったので、石を見たが「新明神」と刻まれているだけで年号はなかった。この階段から展望する五戸橋と川原町下裏付近は美しかった。ここから文豪大町桂月が下町をながめ、美景にうっとりしたという。』
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参道途中の小さな祠の新明神についてはわかりませんが、上記の沢龍明神宮のことでしょうかね。中を拝めなかったためわかりませんが。また、大国在天神と読めたという自然石については、明らかに天満大自在天神の間違いですね。こちらの碑(下の写真)です。中央に「天満大自在天神」と刻みます。紀年銘は読み取れず。
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こちらが石像。
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また、流れる五戸川では触れられていませんが、石像と天満大自在天神碑の間にこのような石がありました。何かは不明です。
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このような石もありました。かつて天満宮前の工藤末吉(昭和23年歿)宅の庭先に1m四方の祠があり、50cmの男根の形をした石を座布団の上に供えてあったといいます。お堂は70年以上も前に古館から沢に移したもので、工藤宅の家の前に置かれました。旧3月3日がご縁日で当時は参拝者の婦人たちが多く集まったといいます。当時は不思議な宗教であると勘違いされて、工藤才八を警察の独房に一泊させたことがあるといい、工藤家では家の裏の柿の根元に移しましたが、隣からの出火により類焼し、天満に移ったといいます。それから末太郎妻ミエが現在の場所に持ってきたといいます。なお、この金勢大明神がどのようにして伝わったか詳細は不明とのこと。流れる五戸川に掲載されている祠の写真とは大分異なりますが、もしかしたらこれが天満の金勢大明神なのかな。
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