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三戸郡五戸町舘。歴史みらいパーク(五戸館跡(木村館跡))にあります(五戸代官所跡裏)。地図によっては「館稲荷神社」「木村稲荷神社」のいずれかで記載されています。
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なお、五戸代官所跡の西、社殿正面方向の空堀と思しき場所の先に鳥居が一基見えましたが、後から行こうと思って写真を撮るのを忘れていました。社殿の向きを考えればそちらが一之鳥居かも知れません。
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藤田雪魚川柳句碑(平成8年11月3日五戸町文化協会建之)…「古代から続く火の色飯が炊け」。裏面碑文…『藤田雪魚、大正13年11月24日五戸町字川原町に生る。平成元年10月NHK川柳特別大賞受賞。平成2年4月五戸町文化賞受賞。平成5年1月五戸町功労賞受賞。平成5年3月青森県芸術文化報奨受賞。平成5年4月五戸町文化功労賞受賞。平成8年9月不浪人賞受賞。平成8年11月日五戸町文化協会建之』
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社殿前の建物。
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内部。
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石が奉納されています。
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7.5
棟札…『陸奥國三戸郡五戸村鎮守舘稲荷神社星霜己久雨蝕露敗清宮既廢禮典有闕故今葺脩輝其旧儀馬冀神明垂感四海艾安部内康樂風雨順序梁穀豊登矣』・『明治二十二年十二月二十日 社惣代兼普請惣轄發起人 發願主 江渡庄兵衛 社惣代 三浦重吉 同鳥谷部健之助 惣世話掛・發願主 江渡宇兵衛 同三浦喜八郎 同一戸忠助 副世話掛 江渡又次郎 同髙橋五三郎 信者 三浦重吉 菊池万之丞 和田仁太郎 藤田善五郎 三浦安兵衛 氏子中 大工 太田喜助 同越後勘之助』
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やや古そうな棟札もありますがよく見ぜず。中央に「古舘稲荷大権現修攸」と書かれているのかな。
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社殿。
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木村杢助の氏神様。茨城の小山から来たといわれる小山家の14代秀勝の時に南部藩の藩吏となり五戸地方を治めました。別名木村郷とも呼び、三兄弟のうち、長男政秀は戸来、次男杢助は五戸、三男秀直は又重を治めました。居住地に舘をつくり、住宅地南側に氏神様として稲荷神社(舘稲荷大明神)を建て、その後代官所が設置されました。神社は歴代の代官が氏神として守り続けてきましたが、明治2年に五戸代官所が廃止され、神社は地域住民が受け継ぎ、改築、修繕などをしながら維持管理してきました。
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拝殿向拝神額「舘稲荷神社」
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拝殿内。
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幣殿・本殿覆屋。
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廿三夜塔(慶應二丙寅歳三月三日、寄進円子左右見、江渡庄兵衛、上大町の儀兵ヱ、福二郎、福太郎、野月の宮松、徳、善吉、鍋助、狐森の宮之助、舘の松太郎、上大町の福松、世蔵、倉蔵、卯野、石之助。世話人万之助、外2名)
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庚申塔※江戸末期建立
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末社。
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何かは不明。稲荷様の雰囲気。
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石仏と不明の石塔。境内には伊勢参りの記念碑とお菊の碑が安置されているそうですがこれでしょうかね。
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男根型の石は五戸代官木村秀晴の愛人菊女が他人の子を身ごもったというので処刑され、その胎児の墓であると言われています。※男根型の石に赤い帽子をかぶせてあるとのことで、この石かどうかの確証はありません。見逃している可能性もあります。
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流れる五戸川より…『根岸八幡宮の本殿がある近近に菊女の墓標がある。地元の古老たちはこの墓石を立派な祠にして拝んでいる。入口には薬師堂の看板があった。さて、今から二百数十年も前のことである。五戸郷に木村秀晴という五戸代官がいた。代官には菊という愛人がいた。代官はある日盛岡に出張した。菊の悲劇はここから始まる。代官は森岡藩の意向を受けて、五戸地方の水田開発に力を傾けていたところである。(中略)かなりの日数が必要だったろう。代官が帰ってきてみると愛人の菊は身ごもっていた。不儀は武士社会のオキテでは死である。菊は「あなたの子なのだから、子供が生れるまで待って…」と訴えた。伝説では「代官が小さな巻物を菊に飲み込ませた。自分の子であったら巻物を手にして生れてくる」というわけである。しかし代官は子供が生れるのを待たず、菊の腹を割らせる。ここでまた伝説が「生れた胎児は男の子で巻物を持っていた」と続く。代官は良心のとがめもあってねんごろに霊を弔った。胎児の墓は館稲荷神社境内に、菊の墓は八幡宮旧堂跡に建てた。菊の墓には「奉安置弥陀如来台躯」と刻まれ、わきに「元禄三庚午五月吉日、木村秀晴妻菊女」とある。施主が菊女、つまり代官の本妻である。代官の本妻、愛人も同じ"菊"だったのだ。伝説では代官が墓を作ったことになっているが、本妻が夫の愛人の死に同情して墓を建てたのだろう。館稲荷にある胎児の墓といわれる、ちっぽけな石像はいかにもあどけない子供の姿で立っている。(中略)木村秀晴は五戸地方開拓に抜群の力を発揮した人である。五戸-十和田子ノ口の十和田新道を新設した人でもあった。(後略)』※『根岸八幡宮 (五戸町)』の記事も参照ください。
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末社。
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こちらも何かはわからず。
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