1
三戸郡五戸町舘。歴史みらいパーク。五戸館跡(木村館跡)、五戸町図書館。歴史みらいパークには図書館、五戸代官所の復元建築物等の他、町を見渡せる展望タワーまで併設されています。
2
五戸町案内図。
3
「坂のまち五戸まちあるきマップ」
4
五戸町図書館・木村秀政ホール、展望タワー、舘稲荷神社、五戸代官所を見て回ります。※舘稲荷神社については別記事にしております。
5
付近の明治天皇行在所(三伝)や野月の稲荷神社及び消防団第一分団屯所は以前に紹介しております。
6
その前に気になるポイントが。
7
「坂のまち五戸の"坂だらけ"堪能ポイント」
8
当然行きます。
9
9.4
9.8
菊地染工(明治23年創業、手染一筋のお店)前の通りです。
10
池がありました。鯉がいます。
11
11.5
五戸町堀合の坂道。※五戸館…『この園をふくむ五戸館(通称木村館)は五戸町の開祖、木村秀勝(杢助)が慶長年間、南部藩北辺のまもりをかためるために五戸の上町(大町、新町、馬町、荒町)、下町(川原町)造営と共に完成したもので、この園は五戸館のうち、木村屋敷に属し、明治初年まで木村氏の所領であった。(航空界木村秀政氏祖先)この園の東側(五戸町役場敷地)は五戸代官所跡で、町の史跡に指定されている。敷地3000坪(9900㎡)。』かつてこの付近は五戸館の堀であり、舘稲荷前で堀が切れているので堀切、また和田寛庭園付近は代官屋敷といわれ、町役場の土地が五戸代官所跡。
12
坂上より。
13
図書館は坂上にあるので下っていきます。やや湾曲。
14
14.5
坂下より。
15
坂下は丁字路となり、ほぼ正面には天満宮(別記事)の階段坂。そして中村畳工店(江戸時代創業)方面は上り、川喜煎餅店・福義煎餅店方面は下りの坂道。
16
16.5
ってことで再び坂を上って図書館付近に戻ってきました。
17
歴史みらいパークは地域住民の生涯学習と憩いの場として平成10年にオープンした公園で、園内にはYS-11機の生みの親であり五戸町名誉町民でもある木村秀政博士の記念コーナー「木村秀政ホール」を併設した「五戸町図書館」と「五戸代官所」の復元施設があります。
18
五戸舘跡(五戸町指定文化財(史跡))…『五戸舘は、戦国時代末期、南部二十六代信直のとき、木村秀勝の造営である。この舘は対津軽藩の防備を考えた三戸城の前進基地であった。五戸川を臨む北崖を利用して、南北二百メートル、東西六百メートルの舘を築き、この舘を中心に下町と上町をつくった。東側の崖の下にある沢町(現在の沢)の中ほどから西へ堀合、堀の内、堀切と外塀を掘って上町と区別した。五戸川の川面から、二十五メートルの高さにある丘を利用しての舘である。木村氏は代々代官を勤めたので、近世初期から木村舘とも呼んでいる。この舘は江戸中期から、明治二年まで、五戸代官所として使用された。現在は、町図書館、五戸代官所、野外ステージを併せ持つ、歴史みらいパークとして町民の憩いの場となっている。(昭和47年6月1日町指定)五戸町教育委員会』
19
19.5
五戸代官所跡へ。
20
20.5
五戸代官所(復元)
21
代官所の門(昭和49年町文化財指定)
22
文久年間の建築と推定されており、屋根と土台が老朽化したため昭和51年に修復されて現存。流れる五戸川「五戸代官所の門」より…『川原町の三浦道雄宅南側にたっている。さて五戸代官所は、明治二年四月二十六日廃止され、三戸県役所の所管となったが、建物は官有のまま、斗南藩庁、県庁五戸支庁舎、五戸小学校などに使用された。そして土台石は現役場庁舎の土台石の一部として利用され、代官所用材は民間払い下げで、江渡熊五郎所有となって、一部が同家の蔵に九十年間保存されているという。代官所の門は、明治初年に五円で三浦重吉が払い下げを受け、十五円をかけて運搬、修理して同家南側に建てたと伝えられている。十和田市滝沢のある家で保存している日記には「文久二年戌二月、広瀬務、重茂直見、滝沢肝入、御山守の名で、栗十五本、松二十本、メ三十五本、五戸通御代官新規建替え、御普請のため入用で滝沢村漆畑御山から切った」と建築年代を明らかにされている。屋根と土台が老朽化したので、五十一年に町費で修復した。』
23
五戸代官所の設置年代は寛永12年(1635)頃と推定。
24
24.4
24.8
約234年間にわたって盛岡南部藩28カ村(五戸通り:三戸郡下13カ村、北郡下15カ村)の司法、行政、警察権を統轄し、藩政末期には1万4170石を領していました。
25
25.5
明治2年に廃止。現在の建物は当時の代官所の平面図を基に復元されたもの。
26
26.5
木造平屋建、寄棟、茅葺、平入。内部には式台付玄関、玄関の間、本座敷、御用之間、台所、水屋などがあり、外壁は真壁造、板張、素地と質素な造り。
27
27.5
裏側の門。
28
28.5
覚…『五戸通には、三戸郡の13か村と北郡の15か村が編入されており、合わせて28か村が五戸代官所の管轄に入っていたのである。幕末における五戸代官所の石高は14,170石で、藩領内で2番目の石高であった。この代官所には、2名の代官をはじめ、下役、帳付、御野馬別当、牛馬役、御蔵奉行など約13名の役人が交代しながら勤めていたのであり、そのほかに多くの下働きの者たちもいたとすると、相当数の人々が出入りしていたことが推察されるのである。文久年間(1861~63)に再建された五戸代官所の建物は、明治2年(1869)に「奉行所」となり、明治5年(1872)には「青森県民事堂五戸支庁舎」として使われている。この「五戸支庁舎」の一部を「五戸小学校」に貸して欲しいという県庁土木係に宛てた伺書に添付した図面が、「五戸代官所の平面図」として、一般に知られているものである。しかしそれは、建物の外郭線のみのものであり、内部の間取りについてはいっさいが不明であった。わずかに、便所が2ヵ所にあり、縁側がある、ということがその書付けによって読み取ることができたのであった。南部藩の代官所として比較できたのは、「花輪御代官所絵図面」と「毛馬内通御役屋御本陣絵図面」であり、近くの八戸藩のものとして「軽米御代官所」を取り上げることができた。また現在、北上市立博物館の「みちのく民俗村」に復原されている旧仙台藩「寺坂番所」の平面図であった。いずれの平面図をみてもいえることは、「代官所」という建物は大きくてりっぱなものでは無かった。そのへんの「大庄屋の屋敷」よりも、どちらかといえば劣るような建築が「代官所」として使われていたのであった。式台の「玄関」から入ってゆく「玄関の間」から「本座敷」という空間は、「代官所」においてもめったに使用しない空間であり、正月の儀式や盛岡からの客人のときなどに用いられるのであった。それにたいして「中之口」から「御用之間」へと続く空間は、常に使用されるところであり、代官たちもこの辺りにいて、仕事をしていたもののようである。そしてこの空間は「台所」から「庭」「水屋」へと通じているところでもあり、なにかと普段の生活が支えられているように造っている。資料の面では乏しいものではあったが、町民の方々の「代官所復元」にかける意気込みに感動させられて仕上げたものである。当時の代官たちの生活でも偲びながら、見学していただきたい。八戸工業大学教授高島成侑』
29
斗南藩の藩庁跡…『明治元年(1868)9月の戊辰戦争に敗れた会津藩は、滅藩となり、翌年暮れ、五戸を中心に本県の東部(下北・県南地域)および二戸市金田一・北海道道南の一部に斗南藩として再興を許されるも、賊軍の汚名のもと、絶望的とも思える苦しい状況に陥った。表高23万石から3万石に減らされ、実質的な石高はわずか7,500石。会津から移住してきた藩士とその家族は2,600戸、17,300余人と記録されている。そして、食糧自給のため開墾作業に従事する中で、多くの人々が餓死・凍死することとなった。明治3年4月、五戸に移住する者の第一陣として小参事・倉沢平治右衛門の指揮のもと300名が八戸に上陸。旧盛岡藩五戸代官所跡が最初の藩庁になり、翌年2月、現在のむつ市田名部の円通寺に移った。この時、幼い藩主松平容大は近くの三浦伝七宅に仮住まいしている。会津の人々は、数々の苦難を克服していく中で、地元の人たちにも日新館教育の門戸を広く開放し、倉沢は中ノ沢塾を開いて青少年教育に努めた。しかし、明治4年7月の廃藩置県により、斗南藩は全国最も短命な藩として終焉を迎えた。本年が戊辰150年であることを記念し、この解説板を建てる。平成30年9月≪解説≫斗南藩歴史研究会滝尻善英』
30
裏手を散策。
31
31.4
31.8
セイヨウハコヤナギ(西洋箱柳、ハコヤナギ科)。「柔らかくて箱を作った」
32
32.5
アカマツ(赤松、マツ科)。「奥州街道に町の木」
33
与謝野鉄幹・晶子合同歌碑「館岡の木立のおくに町古りて踊をてらす初秋の月 鉄幹」・「南部郷五戸の舘の丘に立つ十和田の方に日の落つるとて 晶子」
34
34.5
碑裏文…『大正十四年九月 日本を代表する歌人 与謝野鉄幹・晶子夫妻が五戸に逗留し、この町に関する短歌を残してくれたことは、私達にとって大きな文化遺産であり誇りである。ここに、五戸町の芸術文化の発展と与謝野夫妻の冥福を祈り記念碑を建立するものである。碑文の書は村田大豊老師揮毫による。平成十年十一月九日五戸町文化協会』
35
「碑文の読み方」(五戸町文化協会)。私みたいなバカにはとても助かる看板です。
36
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ