秋田県鹿角市十和田毛馬内柏崎。柏崎新城二の丸跡標柱のすぐ横になります。
この標柱の裏手の建物は十湾が書斎として使っていた三餘堂(明治34年建築。鹿角市先人顕彰館にて復元)かな?と思って中へ…特に何の説明もなく…そして呼びかけても誰もおらず…これじゃ不法侵入っぽいのでやめておきました。標柱のすぐ裏にあるので予備知識が無いと勘違いしてしまいます。
その隣の現代風の家の前に門が残されていました。門には吉田晩稼(長崎生まれの書家。靖国神社の石標、陸軍省、警視庁その他の表札等を書いています。)書・内藤十湾刻の扁額「蒼龍窟」があり、「文学博士故内藤虎次郎郷宅」の表札がありました。蒼龍窟は湖南の父十湾が内藤湖南15歳の時(明治13年)に建立。しかし門の先の家には現在も子孫の方々なのか、はたまた全く別人なのかはわかりませんが、明らかに人が住んでいらっしゃるようだったので写真は控えました。説明によりますと現在は改築されているものの当時の面影を残しているそうで…確認はできませんがいずれにせよこの場所が旧宅地で間違いはありません。
湖南先生旧宅標柱紀年銘…『昭和37年6月26日有志建立』。内藤湖南先生像台座碑文…正面『京都帝國大學名誉教授東洋史學の泰斗内藤湖南先生像」、裏面…『記 この顕彰像は、毛馬内出身の醫學博士木村博氏の深い郷土愛により建立寄贈されたものである。像制作:福本晴男、鋳造:杉山美術鋳造所、臺座制作:成田石材、揮毫:杉村邦彦、平成廿一年十月内藤湖南先生顕彰會』横…『内藤湖南先生略歴 慶応2年(1866)現秋田県鹿角市十和田毛馬内に生まれる。本名虎次郎。幼少時より、父十湾に漢文の薫陶を受けた。秋田師範学校卒業後、北秋田郡綴子小学校首席訓導を経て明治20年(1887)、上京し、ジャーナリストとなる。「明教新誌」の記者を皮切りに、政教社の「日本人」「亜細亜」、さらには、「台湾日報」「萬朝報」「大阪朝日新聞」などの記者として健筆をふるい、中国通として注目される。明治40年(1907)、京都帝国大学文科大学長狩野亨吉に招かれ、同文科大学講師を経て教授となって東洋史学を講じ、狩野直喜とともに京都学派を築く。中国史の時代区分など中国発展に関する独自の見解は内藤史学と呼ばれ、世界の学会に大きな影響を与える。大正15年(1926)には、学会最高の栄誉である帝国学士院会員推挙された。また、書画についても造詣が深く、その端正優雅で格調高い書は近代書道史に光彩を放っている。大学退官後は、京都府下瓶原に恭仁山荘を営み、万巻の漢籍蔵書に埋もれて過ごす。昭和6年(1931)1月、昭和天皇の御講書始めに、杜佑の「通典」を進講した。昭和9年(1934)死去。勲二等瑞宝章を授けられる。』

なお、旧宅のすぐ隣は柏崎新城の深さ7mの空堀(耳捨沢)。

その向こうが御本丸になります。

内藤湖南先生旧宅のはす向かいには育焉亭跡があります。湖南の父十湾が晩年、筋向の奈良正太郎所有の茶室「老梅庵」を併設した塾を「育焉亭」と名付け、そこで塾生の教育に当たりました。碑文…『奈良正太郎翁茶室老梅庵・内藤十湾先生私塾育焉亭旧址 昭和43年11月文化之日 毛馬内郷賢顕彰会長高橋充三書』

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