秋田県鹿角市十和田毛馬内字柏崎。柏崎新城本丸跡。
柏崎新城搦手口(ホリ坂)から搦手坂を登りました。

柏崎新城搦手口(ホリ坂)標柱より…『1608年(慶長13)当麻館から毛馬内氏は柏崎に移り、本丸と二ノ丸の間を堀切にして1本の通路でつなげ、東側が堀切沢(耳捨沢)、西北側は堀合坂(ホリ坂)と呼ばれるようになりました。』
途中で左に分岐する道があります。左に進むと大手坂の途中に出ます。つまり本丸へはどちらからも行くことが可能ですが搦手坂を登った方が本丸に近いです。
とか言いつつ一応左の道も探索。
古絵図では右が家中屋敷跡となっており、私の持っている地図では家中屋敷跡山中に「三吉社」と見えます。他の地図(ゼンリン)を見ても山中に1つだけ建物があるのがわかります。国土地理院の地図では鳥居マークこそありませんが、参道と建物が描かれています。
ところが何も見つけることができないまま大手坂に出てしまいました。

大手坂の上は三の丸があり、三の丸から二の丸へは空堀を挟んで鉤形の道(桝形)があります。
三吉社を見つけるべく、再び搦手坂方面へ戻ります。
ようやく道らしきものを見つけました。
非常にわかりにくいのですが、ここです。国土地理院の地図と場所も一致します。
が!!途中で蚊や虻の大群に襲われて早々に退散してしまいました。間違いなく社殿が存在しますが、道も荒れているのでおすすめしません。季節を選べば大丈夫かも。

ってことで、再び搦手坂から本丸を目指します。

搦手坂上、二の丸。下の写真は今通ってきた搦手坂。
搦手坂上には内藤湖南先生旧宅があります。古絵図では御代官所跡。

はす向かいには育焉亭跡があります。古絵図では家中屋敷御武具蔵、御仮屋。

枡形の家中屋敷跡はまさかの売地になっていました。

御蔵稲荷神社参道の標柱が倒れていました。

毛馬内御蔵奉行所跡。

標柱より…『天保3年(1683年)には4間×10間、5間×20間の年貢米倉庫があり御奉所が置かれていた。近くに御蔵稲荷が祭られている。』

御蔵稲荷。

二の丸御蔵の土塁から見た眺望。
「柏崎新城古絵図」案内板より…『柏崎新城は、九戸の戦いが終って間もない慶長13年(1608年)に第27代藩主南部利直公が直々に縄張りをして築城されたもので、この築城と城下町毛馬内の移転には数年の歳月を要しました。三重の空りをめぐらし、二の丸古町に家中藩直轄の代官所や、三の丸に鉄砲同心を配していました。今も御本丸跡、大手坂跡と二の丸通り、本丸空堀跡などに昔の名残りを留めている。十和田史談会』
本丸跡へ向かいます。下の写真は内藤湖南先生旧宅前から見た本丸方面。向って左が本丸、右が搦手坂。
柏崎新城御本丸(御田屋)標柱。


深さ7mの空堀(耳捨沢)。草木が伸びきっており深さが伝わりませんが。

門を通って本丸跡へ行くと…
まさかの売物件(土地・建物)。どうやらこの城跡は後世に受け継ぐ気がないようです。
慶長2年(1597)旧毛馬内中学校跡の丘陵にあった当摩館を柏崎に移転することが決まり、南部藩主利直公直々の縄張りでもってこの地に新城が築かれました。完成は10年後の慶長12年(1607)。その後、武田毛馬内、桜庭氏と城代の交替はあったものの、秋田、津軽に境を接する要衝の地として多くの武士団が配置されていました。
柏崎館(Wikipedia)より…『別称毛馬内城。鹿角市街を真下に見下ろし、連郭城平坦面三個をもち、本丸は東西200m×南北120mで、他に二の丸、三の丸の名称が残る。江戸時代、秋田藩・津軽藩両藩御領りとして要害屋敷と公称され明治に至った。現在は、本丸跡には館神八幡神社が現存する。慶長12年(1607年)、藩主の命により毛馬内権之助政次によって築城、翌13年(1608年)毛馬内古館から居を移した。寛永19年(1642年)、毛馬内政次が卒し、嗣子が4歳の幼年であったため、藩境警備の重責に耐えないとして、翌20年(1643年)大湯より弟の毛馬内三左衛門直次が知行替となり柏崎館に入った。明暦3年(1657年)、所替えにより毛馬内通代官となった桜庭氏の居館となる。』
Wikipediaの説明にある館神八幡神社にはまったく気付きませんでした。後から地図(ゼンリン)で確認したら、毛馬内柏崎館という建物の裏手(刑場付近)にあるようです。雑草がひどいので気付いても行かなかったと思いますが。
そもそも現在は売物件となっている毛馬内柏崎館というこの建物が一体何なのかわかりません。「営業案内・営業時間午前10時、閉館時間午後3時」、「入館料大人300円・高校生以下100円」などと書かれているので、資料館か何かを作ったのでしょうか。いずにしましても現在は営業していません。そもそも一度でも営業したことあるのかな…っていう雰囲気を感じますね…何やら深い事情がありそうです。※頂いた情報によりますと、かつては個人所有の土地であり、戊辰戦争(東北戦争)の歴史を語り継ぐための歴史伝承館が建設され、営業されていたそうですが(柏崎新城が大館攻めの最前衛拠点として機能したため)、所有者が他界された後は継承されずに現在のような状態に至っているそうです。

他にもいくつか建物が見えますが何かはわかりません。



そういえば百尺の井戸も見ませんでした。こちらも雑草が伸びていたので見逃したのかも知れません。
本丸土塁。土塁の上から撮っています。
以上、柏崎新城(柏崎館)跡でした。






















コメント
コメント一覧 (4)
管理人さんがおっしゃる通りこの建物は数年前(少なくとも6年前)に建てられたので非常に新しいのですが伝承館として営業していたのは1、2年ほどだったと思います。1年半経ったら内装も変わっているだろうかと訪れたところしばらく開けた形跡がない玄関に蜘蛛の巣が張っていて絶望したのを覚えています。
廃藩置県後もここには本丸御殿があったのに台風による倒木の影響で取り壊され、挙句新しい伝承館は短くしか営業できなかったこの城は不運であったとしか言えません。
個人的な意見なのですが自分は戊辰戦争(東北戦争)を、この伝承館を見てからは「敗者側の視点で捉えることもまた重要」と思うようになりました。当時の盛岡藩家老「楢山佐渡」が、藩内で一揆が起きた時の鎮圧に仙台藩が協力してくれたからと同盟側に盛岡藩を導き、藩を守るために久保田藩へ侵攻したものの最後は敗れ、盛岡藩の何十万人の命を助けるために1人その首を落とされたエピソードは涙なしで語れません。この毛馬内柏崎館はまさに楢山佐渡のための伝承館でした。一階が広い広いエントランスになっておりテーブルにはたくさんの資料、そして2階が資料展示室になっていました。あの空間、自分は好きでしたね。
長々となりましたが最後に、よくよく自分が投稿したコメントを見ると個人のプライバシーに関わっている文面が見えます。なのでここは管理人さんの判断にお任せしまして、必要とあればコメントを消していただくのも1つの手法かと存じます。勝手に投稿しておきながら判断を委ねるのも無責任ではございますが、何とぞお願いいたします。
ありがとうございました。
yuki
が
しました
しかし程なく、所有者の方が他界されたため建物は使われなくなったと麓の伝承館の方に聞きました。
ちなみに営業中入りましたが中には戊辰戦争時の盛岡藩側の勇戦の様子や敗北に肩を落として撤退する盛岡藩士の絵、そして盛岡藩家老「楢山佐渡」の肖像画が展示されておりました。
yuki
が
しました