北津軽郡鶴田町沖岡田。かつての沖村。江戸期は津軽郡田舎庄のうち。元は狐森村の枝村であり享保11年に分付。弘前藩領。村高は「貞享4年検地水帳」では狐森村の枝村として村名が見え570石余(田536石余・畑屋敷34石余)、「天保郷帳」438石余、「旧高旧領」619石余。東は柏木村、西は中野村、東南は狐森村、北は横萢村に接します。「貞享4年検地水帳」によりますと、小字に岡田・藤巻があり、反別は田51町余・畑屋敷7町余、田は上田から下々田まで、畑は上畑から下々畑まで設定。元禄3年には赤田組に属し村位は上。藩は寛政改革の一環として荒廃田畑の復興を目指し、藩士の帰農土着政策を推進しましたが、寛政7年に当村に割り当てられた在宅者は御馬廻浅利半左衛門・御家老与力長崎甚八・御馬廻与力竹内直蔵の3人でした。天保年間に小阿弥堰の水下に編成されたといいます。神社としては闇龗神社があり御祭神は闇龗神。「安政2年神社書上帳」によりますと創立年代は不詳で貞享年間の再興と伝えます。明治4年弘前県を経て青森県に所属。同11年北津軽郡に属します。明治3年津軽承昭が10町歩以上の耕地所有者に耕地献田買上を諭し、これをもとに翌4年には士族の帰農在宅が行われましたが、同年当村に帰農を割り当てられた在宅士族は俵子200俵1人、80俵2人、60俵1人、40俵2人、30俵4人、20俵3人、15俵1人の計14人。明治初年の戸数58。同12年の「共武政表」によりますと戸数54・人口335(男196・女139)、馬26、物産は米・大豆。同22年梅沢村の大字となります。
鳥居の鬼コ。
過去の記事も参照ください。
菊池權太郎氏頌徳碑…『菊池権太郎氏ハ資性質實剛健實行第一主義ヲ以テ聞ユ青年ノ頃ヨリ部落ノ衰退ヲ憂ヒ大正四年本組合創立セラルゝヤ直チニ初代組合長ニ推薦セラレ爾来孜々トシテ勵ミ淳々トシテ說キ部落ヲ開發シ其功績大イニ見ルヘキモノアリ其間關係上局ヨリ屡々表彰セラレ又殊ニ数回ニ亙リ畏クモ 皇室ノ御殊遇ヲ賜ハル等全國有数ノ部落ヲ建設シタル實績顕著ナリ依テ茲ニ碑ヲ建テ永ク後進ノ埀範タラシメンコトヲ期ス 昭和十九年六月一日沖貯蓄組合員一同』
裏面碑文「参拾周年記念」…『沖貯蓄組合、創立大正4年4月12日。有栖川宮記念厚生資金御下賜-昭和8年6月1日、高松宮殿下ヨリ拝謁ヲ仰付ラレ御下問ノ光榮ヲ賜フ-昭和10年4月22日、皇后陛下ヨリ御下賜金ノ光榮ヲ賜フ-昭和15年2月11日、朝香宮殿下ノ御召ニ預リ午餐ヲ賜フ-昭和16年4月17日、郡長表彰-大正11年3月31日、縣町村長會長賞與-昭和3年10月15日、縣知事表彰-昭和8年2月11日、縣農會長表彰-昭和8年3月31日』
津軽三十三観世音菩薩(昭和45年旧6月16日奉納、菊地千代司・仝みちゑ敬白)
津軽三十三観世音菩薩。
社号標「村社闇龗神社」(大正7年7月17日青年團建之)
末社。
龍。
こちらは不明。不思議な造りです。
闇龗神社由緒…『堂社の起源は詳ではないが、延暦年間桓武天皇(783年~805年)坂上田村麿将軍の建立と云え傳えられ、明治二年の神佛仕分け令に依り一時廃社となり、明治八年二月には復社となる。明治九年十二月村社に列せられ、大正十年一月四日には指定神社に列格し、當村開発に際し古社を以って崇め爾來産土の神として祀るに至る。昭和十四年一月神殿を新築し遷宮祭を執り行なはれる。昭和二十七年十二月二十二日宗教法人闇龗神社と称せられ現在に至る。例大祭旧6月17日』・台座碑文…『奉納者、総代長小坂仁次郎、総代對馬船水、仝菊池儀右エ門、仝三橋武雄、仝小坂武太郎、仝今哲三郎、仝佐々木曲尺四郎、蒔苗馨、蒔苗義範、三橋喜代作。平成八年旧六月十七日』…曲尺四郎ってすごい名前。
二之鳥居(両部鳥居)
参道。
御神馬(紀元二千六百年記念、弘前市和徳町石工成田藤吉)
石灯籠一対(明治32年)
御神馬(昭和26年旧6月17日、松山永作家内一同、62才、撫牛子桜庭石工)
狛犬一対(明治25年旧4月17日村中)
石灯籠一対(平成4年7月吉日、菊池義隆、優子、伸弥、千佳子、俊輔建立)
手水石(明治33年旧正月)
社殿。
拝殿向拝。金色の注連縄。
本殿。
庚申塔(大正9庚申年旧3月14日、沖村村中)
末社。
水虎様です。向かって右は「水神 大正14年4月21日 沖村中」、左は「水神 昭和9年3月3日 沖村中」
末社。
状態が悪く読み取れず。
こちらも読み取れず。四柱ほど刻まれていると思いますが大名持神しかわかりません。もう一柱は大白大神?に見えます。明治33年旧9月1日、菊地傳三郎89才建之。
二十三夜塔(明治14巳年6月23日建之)
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