闇龗神社の隣に鎮座。境内社になります。
参道の末社。
以前は水虎様として紹介しましたが、改めて見てみるとその判別は微妙ですね。そして木造河童型については結局わからず。少なくとも鳥居にはありませんでした。
狛犬一対(昭和16年旧6月9日、北郡長橋村大字神山、土木建築請負業、成田小太郎建之。五所川原町新谷石彫)
まだまだ雪があって社殿が遠い。
社殿。
石灯籠一対(明治44年6月9日、葛西みわ敬白)
社殿真裏にある小さな建物。何かは不明。
社殿内。
鈴緒。
一筆蛇。
十二支等。
本殿真横には獅子頭(大権現様、昭和57年正月奉納)が安置されています。
金比羅神社建設寄進、寄贈者名(平成10年7月9日建立)。※寄贈(株式会社松野建築社長松野健、金比羅神社一坪)
金刀比羅宮縁起…『神山村百姓七五郎の子に清太郎という美少年があった。大変利口であったので、坊主にしたならきっと立派な和尚になるだろうと、飯詰村大泉寺へ小坊に上げたが落ち着かない。広田村専念寺に託して見たが、箸にも棒にも掛からぬ悪戯者でいつも追い出されてしまった。坊主はいやなのだろうと父も坊主のことは断念して家に置くことにしたが、生来の怠け者で全く仕事しない。父も呆れ果てていたが、良い塩梅に七ツ館村鳴海某から養子に懇望された。他に遣えたら或いは良くなるかも知れぬと、早速承知して呉れてやった。最初こそは、真面目に働いていたが、月日が経つと例の持病が起こり、今日は腹が痛い、明日は臍病だと寝込んでばかりいて、起きて仕事をしようともせない。こんな体裁であることからそこからも追われて家に帰った。馬鹿な子ほどかわいい親心、悪い言葉もかけないで家においたが、怠け者の清太郎は働き者の年頃になったのにもかかわらず、寝たり遊んだりして全く仕事に手をのべようともせぬ。あげくの果ては碌々ありもしない野父の籾俵を盗みだして、酒を呑み煙草を吸い賭博さえ手を出すようになった。然なきだに貧困な家庭であるのに冷害引き続く天保の大飢饉となったので、親子は草の根や木の皮ばかり食べ、ついに飢えて死なんとした。に於いて清太郎は松野木村庄屋長尾久太郎の土蔵を破り米を盗まんとしたが、運悪く掴まれて散々に打ちのめされせた。ぐずぐずしていると打ち首になるのだから清太郎は振り切って野兎の如く逃げ、それなり何所へ行ったやら全く行方不明となった。其の後何年となく音も便りもなかったに、ある年、四国は讃岐の金毘羅神宮から清太郎を迎えに来る様にと突然親元へ書状が来た。然るに貧困なる七五郎は旅費もないからとうとう行かなかった。今度は大泉寺にも専念寺にも又七ツ館の方にも書状が舞い込んだけれども、「屹度碌な事であるまい、係わりあいになってはならぬ」というような譯で縁もゆかりもありませんのでと言って誰もかまわなかった。今度は金毘羅宮より、津軽藩へ「貴藩領内飯詰組神山村百姓清太郎なる者は只の人間ではないらしい。其の譯というものは平素戸締りを厳重にしておくにも拘わらず、何所よりどうして入るものやら、清太郎なる者は拝殿に這入っている。これを追い出しても複た這入っている。斯くすること七度、何所よりどうして入るのかと注目して居ったに、指も通らぬ様な小さな節穴から出入りしている。全く驚いてしまった。これは普通の人間ではあるまい、生神であろう、権化である。「護衛をつけて送ることに取り計らうから御国境迄迎えに来る様に」という意味の御用状が到達した。津軽藩に於いても半信半疑であったが捨てて置くわけにもいかず、国境迄受け取りの役人を差し向けた。誰言うとなく此の風聞がパット広がったので、津軽領内の者共は金毘羅様が来るそうだ、さあお迎えに行こう、拝むにいこうと大変な騒ぎであった。何でも碇ヶ関に於いて茸の中毒で死んだことも又瀕死の状態で村に帰ったことも伝えられている。信仰の連中は早速同家の屋敷に立派な御堂を建て、等身大の座像(木造は粉色を施し、さながら生きているよう様なとても精巧を極めたものである)を刻み、それはそれは一方ならぬ崇敬振りであった。あまりに評判が高かったので折々御神体が盗難にかかった事がある。故に其の後松野木村山伏多寳院に安置してあったが、明治十七年闇龗神社の境内に御堂を新築して祭る事にした。舊社地(現戸主藤田亀吉現在青森に居る)は長橋ため池岸で、小さな松が一株記念として植えられている。例年舊六月九日は夜祭翌十日は御神楽執行する訳であるが、四方の群衆は数万人に達し、露店は村内より溢れ長橋ため池堤防の両側に及ぶという有り様で、それはそれはとてもにぎやかなものであったが、その間にいろいろな弊害も生じて来たので、藩から御神楽執行方御差止めになったという事である。』
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