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青森県五所川原市神山。神山は津軽平野と梵珠山地との境に位置しており、東方には又白山・梵珠山をはじめとする山地が広がり、東南部に長橋溜池があります。集落の北端に神山館跡があって館主には神山左京之助説と深浦弾正説があるそうです。地名の由来は中世の館主神山氏によるものと思われます。
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江戸期以降の神山村は津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は「正保高帳」197石余(うち田176石余田)、「寛文高辻帳」197石余、「貞享4年検地水帳」611石余(田513石余・畑屋敷97石余)、「寛保高辻帳」197石余、「天保郷帳」552石余(うち弘前本では寛政5年改出新田215石余・享和3年改出新田139石余)、「旧高旧領」770石余。正保年間頃に長橋溜池が築造されたものと思われます。慶安年間の絵図によりますと家数7。また、寛文7年に杉漆新田、延宝4年に地子新田の開発が行われています。天和書上帳添図によりますと家数91、うち本村10・同裏屋敷1・枝村32・同裏屋敷3・新田村45。なお、枝村は田越村と思われ、同村はのち近隣各村に分散移住して廃村(長橋村誌)。「貞享4年検地水帳」によりますと小字に「すたれ沢・ひくらし・ことのミね・さかへ山・あられ走・うつら野・とミくさ・山のうし・野きわ・まきのはら・おくの」などがあり、反別は田57町2反余・畑屋敷26町5反余。この他に見取場(畑)45町余、開発可能地(田畑)73町余、永荒田畑2町2反余、漆木314本、池床19か所、観音堂地などが見えます。元禄3年には飯詰組に属し村位は中、家数58。うち庄屋1・百姓18・水呑39。同7年の諸職諸家業覚によりますと、室師(麹師)2人が見えます。天明3年の大凶作では村高197石余のうち178石余が荒地となっています(長橋村誌)。村内鶉野に明暦2年創立の観音堂があり、のち明治6年に闇龗神社と改称。旧村社。同社は同年に前田野目村松倉神社へ合祀されており同8年に復社。明治4年弘前県を経て青森県所属。同11年北津軽郡に属します。明治2年の戸数45・人口253、馬44。同3年知藩事津軽承昭が10町歩以上の耕地所有者に耕地献田買上を諭し、これをもとに翌4年には士族の帰農在宅が行われましたが、同年の飯詰組俵元新田村々士卒水帳によりますと当村に帰農を割り当てられた在宅士族は俵子80俵2人、40俵2人、30俵2人でした。
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社号標「村社闇龗神社」(大正14年7月17日村中)
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鬼コ。現在は鳥居にいませんが鳥居の鬼コです。
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鬼コの背中…「成田定吉、長尾豊三郎、石岡長次郎、松野辰巳、葛西金五郎、土岐重、昭和三十年旧七月十七日」
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6.5
一之鳥居。
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樹齢約350年以上のクロマツの御神木。マツの横にあるのは鳥居の鬼コ。
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彫師は大佐賀幸雄氏で板柳町の常海橋八幡宮の鬼コと同じ方です。雰囲気も似ています。常海橋八幡宮の鬼コは2007年5月31日に奉納されたものですが、こちらは2008年7月17日に奉納されたものです。
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あれ?以前は緑色だったような。
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二之鳥居。
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手水石(昭和18年正月元日、成田小太郎敬白)
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かっこいいですね。
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三之鳥居。
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闇龗神社の御祭神は闇龗神。祭礼日7月17日(祈年祭4月17日、新嘗祭11月17日)。境内社は金比羅神社。明暦2年 (1656) に勧請され創建されました(観音堂)。貞享4年観音堂(境内奥行10間、間口6間。境内林奥行60間、間口56間半。村中抱)。明治6年に観音堂を闇龗神社と改め松倉神社へ合祀されましたが、同8年に復社。その後、明治9年12月村社に列せられました。明治17年5月(明治14年とも)松野木観音林より現社地へ遷座され、明治44年9月8日神饌幣帛料供進指定神社に列格。
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なお、由緒等については前回の記事も参照ください。また、境内社の金比羅神社については別記事にしております。
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前回の記事
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国有地献上記念碑(昭和32年11月17日)
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狛犬一対(昭和14年旧8月15日。長橋村大字神山、土木建築請負業成田小太郎)
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19.5
御神馬一対(昭和6年旧3月5日、北津軽郡長橋村神山、松野みき)
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20.5
石灯籠一対(明治42年8月17日村中)。後ろの建物は祭具庫(物置)。
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21.5
社殿。
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22.5
社殿前狛犬一対(明治42年7月17日松野定吉)
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23.2
23.4
23.8
手水石。
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たぶん手水石。
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拝殿向拝蟇股・木鼻。
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海老虹梁・手鋏。
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27.5
拝殿向拝にある木製の旧鬼コ。以前までは青鬼っぽい感じで、拝殿内(幣殿)に安置されており、その後綺麗に塗り直されて赤鬼となり現在の位置に移動しています。更に私が以前見た時は赤鬼でしたが現在は青鬼(緑)になりました。
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この鬼コについての伝承(村の古老の話)を紹介します。『数十年前から鬼コはあげられていた。前には木の鳥居に木の鬼コがあげられていたが、石製の鳥居ができたので、木の鳥居は鬼コをあげたまま拝殿の方へさげた。しかし木の鳥居が腐ったので、石製の鳥居に神像型鬼コと2つならべてあげた。さらに日本海中部地震で神像型がおちてこわれたので、今は強力型鬼コだけになった。』・『今から110年位前に、撫牛子八幡宮の氏子が、村人を悪霊から守るために、一の鳥居に木彫の鬼コをあげたのが最初である。神山の鬼コの写真は約10年前に撮影したものである。下記の点を調べてほしい。①木の鬼コは、何時頃、何のために松野兼吉があげたのか。そのときの鳥居は木製で、道路に面した一の鳥居であったかどうか。②石造の鳥居にあがっていた石の鬼コは、昭和30年、どの位置にどのようにしてあげたか。③私の推測によると、明治の終り頃、木の鳥居に木の鬼コがあげられ、次に入口に石の鳥居が出来たときに、木の鬼コが移された。しかし頭がくさってきたので拝殿内に保管されたので、昭和30年、成田定吉さんたち同級生が、石の鬼コをあげた。しかし村人から強い申入れがあって、箱に入れた木の鬼コを隣にあげて2つの鬼コになった。④鬼コは神様であるから、木の鬼コを下におかずに、石の鳥居にあげるか、又は拝殿の中に安置しておいて下さい。五林平では本殿の前に安置してあります。』
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本殿。
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拝殿内。
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31.5
現在は拝殿向拝にある旧鬼コの現役時代の写真も見ることができます。
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32.4
32.8
幣殿。
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大佐賀幸雄作の鬼コの奉納について書かれています…『鬼奉納。五所川原市神山鶉野、闇龗神社。祈願文、部落繁栄、五穀豊饒。願主氏子総代、松野繁雄、神邦雄、須藤㐂八郎、松野美佐雄、石岡蔵次郎、松野正美、葛西久俊、秋元敏広。西暦二千八年七月十七日。青森県五所川原市金木町川倉、佛師大佐賀幸雄作』
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旧社号標「村社闇龗神䄕」(大正8年7月17日建之村中)。上に付いてるの何でしょう。鳩?にしては怖い顔ですね…猛禽類に見えます。
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そんでもって状態がいいのに僅か6年で現在の大正14年7月17日の社号標に代わったのはなぜでしょうね。元々違う場所にあったものかな。旧参道入口とか。
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ちなみに側面には「欧洲大戰媾和紀念敬白」とあります。
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忠魂碑(陸軍大将鈴木荘六書、昭和11年11月)
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