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高照神社。弘前市高岡神馬野。
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社号標(奉祝皇紀2600年記念・昭和15年11月10日、高岡村中建立)
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参道。
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高岡の森弘前藩歴史館へ。弘前市高岡獅子沢128-112。休館日:第三月曜日(祝・休日の場合は翌日)、年末年始(12/29~1/3)、展示替え期間中。開館時間:9:30~16:30。
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武家のみやび。弘前藩主津軽家と藩士たちの暮らしを彩った文具・屏風などの調度品や書画を紹介。令和4年4月8日~7月3日まで。
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津軽信政着用具足(複製)※原品:県重宝
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貞享4年陸奥国津軽郡御検地水帳。
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常設展及び企画展ともに説明は省略します。
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現地でお楽しみ下さい。
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ちなみに令和4年度の現時点における予定は「津軽刀工伝」(7/15~9/11)、「弘前藩の知と技」(9/23~12/18)、「岩木山と岩木川」(1/6~3/26)。
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高照神社参拝。
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随神門。
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江戸後期(1810)。三間一戸八脚門、切妻造、鉄板葺。
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何か建物が崩壊してる。
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『高照神社は、四代藩主信政を祀る廟所に始まる。信政は宝永7年(1710年)弘前で死去し、遺命により五代藩主信寿が吉川神道に基づいて高岡の地に神葬した。明治に至って同十年に初代藩主為信を合祀している。社殿に就いては、五代藩主信寿が正徳元年に廟所、同2年に社殿群を建てて社頭景観を整えた。次いで七代藩主信寧が宝暦5年(1755年)に拝殿を造り替え、九代藩主寧親が文化7年(1810年)に随神門、同12年(1815年)に廟所門を建てた。社殿は弘前城の西方、岩木山麓に東西軸上に並んで配置されている。東から鳥居、随神門、拝殿及び幣殿、東軒廊こんろう、中門、西軒廊こんろう、本殿が建ち並ぶ構成で、津軽信政公墓のある廟所は本殿の約200メートル西方にある。本殿は、桁行三間梁間三間の身舎もやに、一段低く一間の唐破風からはふ造の向拝がつく。四周に縁を廻し、屋根はこけら葺で千木ちぎと堅魚木かつおぎを置く。内部は一室につくり、外廻りは丹塗、内部は朱漆塗。中央基壇上に方一間の宮殿を置く。拝殿と幣殿は一体となった建築で、桁行七間梁間三間の拝殿の背後に正面三間側面二間の幣殿が接続し、したがって平面は背面が突出した凸型となる。拝殿は総円柱、入母屋造で正面千鳥破風付、三間の向拝に軒唐破風を載せ、極彩色の透彫の彫物で飾っている。内部は梁間方向の前一間通に円柱を立て、前方を外陣、後方を内陣に区切る。幣殿は角柱。背面中央間が両開板扉で、東軒廊に続く。拝殿、幣殿ともに外廻りは丹塗で、内部はともに弁柄べんがら塗である。中門は一間一戸の平唐門で柱間装置は両開桟唐戸さんからど。本殿から中門に至る西軒廊、中門から幣殿に至る東軒廊はともに桁行四間梁間一間、天井はなく化粧屋根裏で石敷きの床に連子窓を連ねる。拝殿前方の随神門は三間一戸の八脚門で、正面と両側面に縦連子を入れ、丹塗。高塀が左右に延びる。本殿後方に位置する廟所は、石造の津軽信政公墓二基が前後に並び、その前面の廟所拝殿、正面の廟所門で構成され、周囲に石垣と土塁を築き、瑞垣と木柵を廻している。廟所門は素木で、背面に立つ控柱と貫で繋ぎ、両開板戸を付ける。廟所拝殿は内部は一室で、床は板敷、天井は棹縁天井。外廻りは丹塗で、内部は床から天井まで朱漆塗とする。高照神社は、吉川神道に基づいた独特な社殿構成であり、全国的にほとんど類例がなく、近世神社建築の展開の一端を示すものとして価値が高い。』
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『高照神社は、弘前藩第4代藩主の津軽信政を祀る廟所が営まれたことに始まる。東から鳥居、随神門、拝殿及び幣殿、中門、本殿が東西軸上に建ち並び、津軽信政公墓のある廟所は、本殿の約200m西方にある。年代は、津軽信政公墓が宝永7年(1710)、廟所拝殿が正徳元年(1711)、本殿、中門が正徳2年(1712)、拝殿及び幣殿が宝暦5年(1755)と判明する。高照神社は、吉川神道に基づく独特な社殿構成であり、全国的にほとんど類例がなく、近世神社建築の展開の一端を示すものとして、高い価値がある。本殿や拝殿及び幣殿は、規模と形式が充実し、装飾細部も優れ、各時期の造形をよく現しており、地方的特色を具備する重要な遺構である。』
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『高照神社は、弘前4代藩主信政が神式で埋葬された所であり、5代藩主信寿により、吉川神道の思想に基づいて配置された貴重な遺構である。7代藩主信寧が拝殿を造り替え、9代藩主寧親が随神門、廟所門を建てている。東から鳥居、随神門、拝殿及び幣殿、中門、本殿が東西軸上に建ち並び、津軽信政公墓のある廟所は、本殿の約200メートル西方にある。本殿は、桁行3間・梁間3間の入母屋造こけら葺で、屋根の正面に千鳥破風を載せており、一段低く造られた1間の向拝には、唐破風を付けている。中門は、1間1戸の平唐門のこけら葺である。本殿から中門に至る西軒廊と、中門から幣殿に至る東軒廊は、桁行4間、梁間1間の切妻造こけら葺で、東軒廊の幣殿側1間は一段高い屋根とする。拝殿及び弊殿は、背面を突出した凸型平面である。拝殿は、桁行7間、梁間3間の入母屋造こけら葺で、正面に千鳥破風を置き、3間の向拝には軒唐破風を載せる。幣殿は、正面3間、側面2間の切妻造こけら葺で、拝殿背面中央に接続する。随神門は、3間1戸の八脚門で、切妻造鉄板葺である。本殿の後方に位置する廟所は、石造の津軽信政公墓が前後に並び、この前面の廟所拝殿、正面の廟所門で構成され、周囲に石垣と土塁を築き、瑞垣と木柵を廻している。本墓と呼ばれる後方の津軽信政公墓は、二重の八角形石造台座の上に八角形石柱を立て、頂部に笠石を載せる。拝墓と呼ばれる前方の津軽信政公墓は、三重の方形石造台座の上に方形石柱を立てる。廟所拝殿は、桁行3間、梁間2間の切妻造銅板葺で、背面中央に正面1間、側面1間の切妻造の突出部を設ける。廟所門は、一間腕木門で、屋根は起りのある切妻造銅板葺である。』
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岩木山神社まで歩こうと思いましたが、岩木山の残雪をなめてました。弘前市街地はこのような状況だったのに。
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ってことで、復元された馬場跡を見に行ってみます。
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馬場跡。
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高照神社馬場跡…『高照神社の馬場は文政13(1830)に弘前藩により構築され管理されましたが、廃藩後、馬場として使われなくなり、雑木も繁茂したものの、馬場としての形態は良く残っていました。弘前市では貴重な馬場跡を保存・活用するため、神社所蔵資料等の保存・活用を目的とする「高岡の森弘前藩歴史館」整備に併せて、敷地の公有化と発掘調査を実施し、その調査成果に基づいて、土塁構築や砂敷設など復元的な整備工事を実施しました。馬場の規模は、幕末の境内を示すとされる「高照神社境内絵図」には「西ヨリ東ニ八拾間北ヨリ南ニ八間ナリ」と記載されておりますが、発掘調査の結果によると、馬場東西幅は143.8m、南北は通路を含め15.2~15.8mであり、絵図にある規模は土塁に囲まれた部分を示していることが判明しました。境内は岩木山南東麓に位置し、西から東に傾斜していますが、馬場の構築に伴う土量約1670㎥の盛土により、5.9mの標高差を2.7mまで埋めたようです。また、馬場を囲む土塁の東西辺には、崩落を防ぐため石積が構築されました。なお、絵図では、参道から馬場に向う入口に「石橋」「土橋」の表記がありますが、現状では西の「石橋」のみ現存し、「土橋」は現存しません。高照神社馬場跡は、江戸時代後期に弘前藩が行った土木事業の跡として、また、「神馬奉納」が行われた神社祭祀の場として、歴史的に貴重な遺産といえます。平成29年12月弘前市教育委員会』
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整備工事前状況。全然違って見えますね
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以下の写真は「高岡の森古民家カフェ 山の子」のこだわりチキンカレー&チキンドリアです。
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高照神社前にあります。
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