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金峰神社(にかほ市)』、『金峰神社(にかほ市象潟町)其之弐』からの続きです。まだ宝物殿付近です。
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鐘楼を見たせいか、もっと神仏混淆感を残しているのかと思いましたが、綺麗に整備されており特に何もありませんでした。
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郷土文化保存伝習館。
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毎年9月上旬、鳥海山麓に伝わる番楽などを一堂に会した「鳥海山伝承芸能祭」を開催。
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金峰園売店。営業していません。
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宝物殿にあった案内板「金峰神社と小滝修験」より…『中世以降になると、平安時代後期から始まった修験がさらに栄え、修験坊中が鳥海山の登拝口ごとに形成されました。金峰神社は秋田県でも珍しい修験者の宿坊村落であったにかほ市象潟町の小滝地域にあります。境内に鳥海山修験の行場でもあった「奈曽の白瀑谷」(国指定名勝)があり、金峰神社はその滝と対峙しています。縁起によると天武9年(680)の草創とされ、蔵王権現と鳥海大権現を祀り、同神社には「木造蔵王権現立像三体」(県指定有形文化財)が安置されています。そのほか境内の宝物殿には丈六仏の「木造観音菩薩立像」(県指定有形文化財)、木造狛犬(県指定有形文化財)、宝永6年(1709)に再鋳された梵鐘(市指定有形文化財)などが納められ、神社境内には慈覚大師が築いたとされる旧参道石坂、元享2年(1322)の板碑や明和元年(1764)の青面金剛塔、享保16年(1731)の西国三十三所巡礼供養碑などの数々の信仰遺物が見られます。明治になり神仏分離令・修験廃止令が出されると、隆盛をみた鳥海修験は復飾し、蔵王権現は金峰神社として再編されました。修験の影響を受けて独自に育まれた文化は、金峰神社の行事として今も継承され、1月1日の元旦祭にはじまり、1月5日の五日堂鎮火祭、1月7日の七日堂祭・祈年祭、5月最終土曜日の例祭、8月1日の鳥海山参りなどが行われ、5月の例祭では境内の土舞台で「小滝のチョウクライロ舞」(国指定重要無形民俗文化財)が舞われています。』
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金峰神社年中行事。
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境内の土舞台で舞われるチョウクライロ舞。
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それでは花木円広場から一番距離のある道を通って金峰神社を目指します。
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赤い矢印の経路です。
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道中は特に何もありませんでした。階段を下って行きます。
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12.5
ねがい橋前から再び社殿へと登ります。なお、奈曽の白滝やねがい橋については別記事にしております。※『奈曽の白滝(にかほ市)』の記事。
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御祭神は安閑天皇、伊弉册命、事解男命、大日霊命、稲倉魂命、八十枉津日大神。例祭日6月15日。特殊神事「延年チョウクライロ舞」。
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神社庁より…『上古蔵王権現と称し、草創は白鳳9年といわれ、当時は諸国に病に当って死ぬ人が多かった。時に役の小角行者勅を奉じて悪疫退散の為諸国を廻り、当山に至り、見ると一つの滝がある。これ誠に霊地である。大和国吉野より蔵王権現を安鎮しようと暫時の間観想を成し給うたところ、不思議なるかな虚空に紫雲あらわれ、その中から金色の光明を放っている。これによって小角その光の下に至り、伏して明王尊を下し、一刀三礼して三日三夜かかり彫刻は成就し堂宇を建立する。大和国吉野より蔵王大権現を勧進して薬師密法大護摩を修し、神呪秘法を尽して祈誓したところ、天下亦息災となる。よって天下第四の鎮護霊場となす。合殿鳥海神社は上古立木観音と称す、斎衡3年鳥海山に悪鬼住み往来の諸人を害す。時に慈覚大師勅を奉じて当所に至り、蔵王大権現の前に清浄なる地荘檀行をなし、護摩密法を修業すれば、天地震動山破裂して悪鬼を退治し給う。此地は実に鎖国安民の霊場に過ぎたる所と、一丈六尺の立木観音を自作なされ、蔵王大権現に安置せられる。又閻浮提を設け陵王納曽利の御面を彫刻し、獅子頭を作り舞楽を奉す。今尚その恒例格式により舞楽を奉す。その舞楽を延年チョウクライロ舞と言うのである。』
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wikipediaより…『祭神少彦名神ほか8柱。神仏分離以前は鳥海大権現と蔵王権現が祭神であった。社伝では役行者が小滝の少彦名神に蔵王権現を合わせ祀り[1]、斉衡3年(856年)、円仁(慈覚大師)が鳥海山の巨人「手長足長」を退治した際に鳥海大権現と蔵王権現を奉じたとされている。鳥海山大物忌神社の別当寺であったともいわれるが、江戸時代には「蔵王堂」と呼ばれ、龍山寺を別当とする宮寺一体の形態で鳥海修験の中心地の一つとして信仰を集めた。明治2年(1869年)に「鳥海神社」と改名し、大正2年(1913年)には境内社の熊野神明社を合祀して現社名「金峰神社」に改称した。例祭で演じられる「チョウクライロ舞」は、2004年(平成16年)2月、「小滝のチョウクライロ舞」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。』
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広報あきた(昭和48年・通巻130号)「ふるさとの社寺」より…『「奈曽の白滝」(天然記念物昭和七年指定)のある神社、といえばすぐ思い浮かべられるであろう。それがこの金峰神社である。羽越線・象潟駅から車で十五分ほど、前方に山肌の陰翳を浮びあがらせている霊峰・鳥海を見すえる、同町小滝が神社のあるところだ。シーズンオフのためか、年間六万人という観光客を集める名勝地も人影はほとんど見あたらない。初春を思わせる陽光も、うっそうと樹木の繁っている境内まではしのびこめないようで、ひんやりとした冷気が肌と隣合っている。そんななかを数分歩いていくと冬囲いに身をくるんだ神社本殿に出会う。「そもそもの創まりは鳥海山に大己貴神を小滝村に少名彦神を祀ったことに遡ります」と神社の縁起を語るのは、宮司の遠藤蔵之助さん(65)。さらに白鳳8年(680)、役行者が鳥海山の大己貴神に薬師如来を習合して鳥海大権現とし、また小滝の少名彦神に釈迦弥勒観音を作製し合体させて蔵王権現として祭祀した。この観音像三体は、現在でも御神体として神社の厨子内に安置されており、おのおの八尺、七尺、六尺あまりの丈をもつ木彫像である。御神体の御開帳は六十一年ごとに一回行なわれるのみで、特別な例外を除けば厨子の扉は開かれることはない。そのため、御神体三像は写真で見るしかないが、その両腕にあたる部分などはいささか破損している。遠藤さんによれば、文化元年(1804)の大地震の際こわれたのではないかと推定されている。当神社には県重文の文化財が数多く遺されている。さきの御神体三像のほか、狛犬一対等などであるが、御神体を除いてすべてが近代的建物の「宝物館」に蔵されている。この宝物殿の展示ケースで一きわ他を圧して目をひく木彫像がある。通称丈六観音と呼ばれているもので、これに関しては次のような歴史が伝えられている。文徳天皇の時代、三崎山付近に手長足長という化け物が出て権現詣りする人々を困らせていた。そこで斉衡三年(856)慈覚大師がこれら悪鬼を退治するため祈願したが、そのときアララギの木をけずって像をつくれとのお告げがあり、それに従ってつくられたのが丈六観音像だというわけである。同時に舞面も作られ舞もおこされた。これがチョウクライロ舞(県無形文化財)で毎年五月に舞われ、その舞台は神社鳥居近くの境内に土を盛らせてしつらえられている。以上のような変遷を経てきた金峰神社にとって、鳥海山の存在は神社のみならず地域の政治社会的帰趨をも決定するものであった、と遠藤さんは語る。この帰属が最初に決められたのは宝永元年(1704)の裁判とされている。庄内と矢島との間で主張がなされたが、結局庄内に軍配があがり、以降鳥海は山形県側のものとされ現在に至っているのは地図を開いての通りである。しかし、遠藤さんら本県側の関係者にとっては痛恨やるかたないというのが現状のようで、多くの歴史事実を披瀝して熱っぽく語るその口ぶりは、この方面の事情に暗い記者さえをもいささか圧例するといった具合であった。ほかに宝物殿に納められているものに「瑠璃の宝玉」というのがあるが、これは欽明天皇期の師安元年(私年号で、大化年号の七十年ほど前)にこの地方で発見されたもの。これによって飽海郡から割いて「瑠璃の荘」がつくられ後の由利郡のおこりとなったのである。なお当神社は明治二年神仏混淆を廃して金峰神社となった。』
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パンフレット資料より…『金峰神社は鳥海山麓秋田県側、にかほ市象潟町の小滝集落にある。小滝集落は、登拝道の起点となる小滝口であり、修験者が数多く居住し、各地から来る道者(登拝者・参詣者)たちの世話をし、鳥海山へ導く秋田県唯一の宿坊集落であった。金峰神社境内には小滝修験の行場でもあった奈曽の白瀑谷(国指定名勝)があり、金峰神社社殿はその滝と直接対峙しているところにも特色がみえる。金峰神社に伝わる縁起によると、草創は天武9年(680)とされ、蔵王権現と鳥海山大権現を祀る。現在の社殿は昭和53年に再建されたもので規模が大きいが、境内にある「紀念碑」(建立年不詳)や棟札に文化元年(1804)の象潟大地震で被災し、翌2年(1805)に再建されたということや、さらに万延元年(1860)に再建されたこと等が記されている。小滝修験の最古の史料は、「小滝村居屋敷三十五軒中、(修験者が)院主(龍山寺)、常光坊、金蔵坊、宝泉坊、宝蔵坊」と記されている慶長17年(1612)の「最上検地帳」(個人蔵)であるが、金峰神社社殿には役小角が勧請祭祀したと伝えられる木造蔵王権現立像三躰(秋田県指定有形文化財<彫刻>)が安置され、さらに境内の宝物殿には慈覚大師作とされる丈六の木造観音菩薩立像(秋田県指定有形文化財<彫刻>)などが遺され、鳥海山信仰の拠点としての古さを物語っている。そのほか宝物殿には、木造狛犬(秋田県指定有形文化財<彫刻>)、宝永6年(1709)に鋳造された鐘(にかほ市指定有形文化財<工芸品>)などが納められ、神社境内には慈覚大師が築いたとされる旧参道石坂、元亨2年(1322)の板碑、明和元年(1764)の青面金剛塔、享保16年(1731)の両国三十三所巡礼供養碑など数々の信仰遺物がみられる。明治になり神仏分離令・修験禁止令が出されると、隆盛をみた小滝修験は復飾し、鳥海山大権現・蔵王権現は金峰神社の祭神に改められ、戦後は宗教法人となった。現在、金峰神社の管理、維持は小滝集落全世帯(150戸)の金峰神社氏子が当たっている。また、修験の影響を受けて独自に育まれた文化は、金峰神社の各神事や民俗芸能として現在も継承されている。1月1日の元旦祭にはじまり、1月5日の五日堂鎮火祭、1月7日の七日堂祭・祈年祭、6月第2土曜日の例祭、8月1日の鳥海山参り、11月23日の新嘗祭の年中行事が行われ、6月の例祭では境内の土舞台で小滝のチョウクライロ舞(国指定重要無形民俗文化財)が奉納される。また、盆には集落において鳥海山小滝番楽(秋田県指定無形民俗文化財)が行われる。これらの神社の舞楽等に関しては、小滝舞楽保存会を組織して伝承を図っている。』
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18.4
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建築力士像。阿吽に見えます。
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木鼻等もそうですが目が黒く塗り潰されています。
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海老虹梁の上にいます。
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海老虹梁、手鋏、建築力士。
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拝殿正面に何かが飾られています。
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達筆過ぎて読めませんが俳句ですね。
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紀年銘明治12年。
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奈曽の白滝と正対する位置に神社があります。
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案内板「国指定史跡鳥海山 金峰神社境内(国指定史跡・平成21年7月23日)」より(※奈曽の白瀑谷の内容は別記事にて)…『小滝修験の拠点である金峰神社(旧蔵王権現社)は、蔵王権現と鳥海山大権現を祀り、平安時代に遡ると推定される聖観音立像、蔵王権現立像が遺されています。境内には慈覚大師が築いたとされる旧参道石坂、元亨二年(1322)の板碑など数々の信仰遺跡が遺されているほか、毎年5月最終土曜日に国の重要無形民俗文化財に指定されている。「小滝のチョウクライロ舞」が境内の土舞台で奉奏されています。』
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合殿鳥海神社…『人皇第55代文徳天皇御宇斉衡三年(856)慈覚大師藏王権現に丈六の観音並に二十一社の山王権現を自作安鎮し両王納曽利の面を造り舞楽(チョウクライロ)を奏して八講祭を修す。明治二年神仏混こうを廃し、鳥海神社と改称す。尚境内社熊野神神明社を大正九年合祀す。』
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石碑。
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碑文。
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奉寄進参道敷石、基本金寄附者名碑。
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金峯神社本殿造營拝殿大修繕御坂及鳥居建設費金二十円以上寄附者人名碑(大正9年3月)。
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