にかほ市象潟町小滝字奈曽沢。

案内板「国指定史跡鳥海山・金峰神社境内」(種別国指定史跡・指定日平成21年7月23日)より…『金峰神社のある小滝集落は、鳥海山登拝道の起点となる小滝口と呼ばれてきました。修験者が数多く居住し、各地から来る道者(登拝者・参詣者)たちを世話し、鳥海山へ導く秋田県唯一の宿坊集落でした。金峰神社の縁起によると、草創は天武9年(680)とされ、蔵王権現と鳥海山大権現を祀っています。同神社には役小角(えんのおづぬ)の勧請という木造蔵王権現立像三躯(秋田県指定有形文化財<彫刻>)、慈覚大師作とされる丈6(3.6m)の木造観音菩薩立像(秋田県指定有形文化財<彫刻>)などが遺され、鳥海山信仰の拠点としての古さを物語っています。神社境内には慈覚大師が築いたとされる旧参道石坂、元亨2年(1322)の板碑、明和元年(1764)の青面金剛塔、享保16年(1731)の西国三十三所巡礼供養碑など数々の信仰遺物もみられます。また、修験の影響を受けて独自に育まれた文化は、金峰神社の各神事や民俗芸能として現在も継承されています。1月5日の五日堂鎮火祭、1月7日の七日堂祭・祈年祭、5月最終土曜日の例祭、8月1日の鳥海山参りなどがあり、5月の例祭では境内の土舞台で小滝のチョウクライロ舞(国指定重要無形民俗文化財)が奉奏されます。文部科学省・管理団体にかほ市』
案内板「言祝ぎ(ことほぎ)を伝える演舞-延年チョウクライロ舞」より…『チョウクライロ舞という不思議な名前の舞が始められたのは今から千百五十年以上も遡ります。そのころ鳥海山に悪鬼が住み、人々を悩ましていました。そこで慈覚大師が命ぜられて、この地を訪れ、鳥海山大権現と蔵王権現に祈り、法力で退治することができたのです。その際に大師はアララギの大木で一丈五尺の聖観音像を造り、陵王、納曽利の面を彫り、その面で厭舞を奉ずるための土舞台も築き、八講祭という神恩感謝の祭りをしたといいます。この祭礼を行なったときに始めたというのがチョウクライロ舞です。チョウクライロとは長く久しく生きる容を意味しているといわれ、毎年五月最終土曜日に金峰神社の例祭に演舞されています。』
奈曽の白滝総合案内板(園内遊歩道所要時間:現在地→(5分)→宝物殿→(15分)→滝つぼ→(10分)→金峰神社→(5分)→ねがい橋→(15分)→無料駐車場)。
社号標(明治39年10月8日秋田市倉田嘉一郎)。

手水舎。

鳥居。
狛犬一対(昭和8年5月15日)。
土舞台。
金峯神社「小滝のチョウクライロ舞」重要無形民俗文化財指定記念碑(平成16年2月6日国指定)。

小滝のチョウクライロ舞の土舞台…『この土舞台は閻浮堤(えんぶだい)またはチョウクライロ山とも言われ、慈覚大師が鳥海山の手長足長という悪鬼を退治した際に八講祭を行い、神恩に感謝する舞楽「チョウクライロ舞」を奉じたと伝えられる舞台です。現在、毎年5月の最終土曜日の神社例祭日にこの土舞台で、「小滝のチョウクライロ舞」が行われており、同舞は、平成16年2月6日に国の重要無形民俗文化財に指定されています。にかほ市教育委員会』

小児の舞。ちなみにこちらの案内板では毎年6月第2土曜日となっていますが、5月の最終土曜日が正しいようです。

石碑。読み取れず。

「平和之礎」(大東亜戦争・日支事変戦没者・従軍者名碑)。

慰霊碑。

明治弐十七八年戦役紀念碑(※日清戦争)。陸軍中将男爵立見尚文篆額。

こちらは読み取れず。手前に小石が積まれています。

板碑。


板碑…『板碑というのは石の塔婆のことで、死んだ人の供養と、生きているうちに建てたのと二通りあり、五輪の塔に代って作られたものと考えられている。ここにある板碑には、「元亨二年六月下旬、道円僧の為に、逆修敬白」と書いてあり、上に梵字がある。元亨二年(1322)は、今から668年前の後醍醐天皇のころで、逆修というのは生きているうちに法名をつけ、死んだのち大往生するようにお経をあげて供養することをいうが、道円僧については、はっきりしない。平成2年10月にかほ市教育委員会』

石仏。

石灯籠二対(昭和9年8月建立、大正15年11月奉納)。




明治三十七八年郷軍之碑。

慈覚大師御築之石坂。
こちらの新しい石段ではなく…
隣が慈覚大師が築いたとされる旧参道石坂です。
ってことで、まだ石段下ですが長くなりましたので『金峰神社(にかほ市象潟町)其之弐』へ続く。



コメント