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秋田県湯沢市皆瀬。
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案内板もありますが、大噴湯入口前にあるあぐり館・観光物産館もしくは総合案内所にてパンフレット「おんせんこぞーのてくてくMAP」(小安峡マップ)をゲットすると便利です。
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大噴湯(体感!地球の息吹-Feel the breath of the earth!)より…『大噴湯では、岩の割れ目から、高温(98℃)の蒸気と温泉がふき出しています。このような現象は、地下に染み込んだ雨や雪解け水が地熱で熱せられ、熱湯や蒸気となって地上にあらわれるために起こります。皆瀬川が60mも大地を削った結果、普段は目に見えない地熱を目の当たりにできる、まさに地球の息吹を体感できる場所が生まれたのです。』
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パンフレットより…『通称「地獄釜」と呼ばれ、小安峡随一の景勝地として知られている大噴湯。皆瀬川の急流が長年にわたり両岸を深く浸食してきた落差60m・長さ8kmにおよぶV字谷。遊歩道や橋から、高温の蒸気と温泉が噴き出している様子を見ることができるよっ。!!』
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大噴湯入口。
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小安峡大噴湯へは約400段(800m・標高差60m)の階段を降りていきます。
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Let's go!
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小安温泉の由来…『その昔、木こりが山中の泉で足の傷を治している麋(カモシカ)を見て温泉を発見したという説と、片脚を折った鶴が脚を温めていたところ10日で治り飛び立つ姿を見て温泉を発見したという説があり、諸説いずれにせよ、温泉の効能を知った村人が湯壺(風呂場)を作り、近在の人が入浴したところ、さまざまな病気が治ったことから広く知られるようになり、院内銀山を見廻りに来た佐竹藩士がお供を連れて温泉を利用するなど、多くの人々でにぎわいました。佐竹藩では、温泉を発見し特に功績があった者に湯別当という称号を与え、温泉の税金(運上銀)を藩に納めた者だけが温泉経営を許されました。寛文6年(1666年)佐竹義尉(よしやす)公御入湯。宝永4年(1707年)佐竹南家御奥様入湯(お供数百十人余り)。文化8年(1811年)佐竹藩主、天樹院義和(よしまさ)公御来湯。』
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皆瀬川は、水無瀬川・小安川・真魚(まな)川・稲庭川・岩崎川ともいいます。県南東部を流れる川。虎毛山に源を発した春川と虎毛沢が合流して皆瀬川となって北西流します。菅生(すごう)付近から谷底平野が広がり、右岸に3段、左岸に1段の非対称の段丘が発達。雄勝郡稲川町の中央を北流し、平鹿郡増田町で成瀬川と合流して西流、湯沢市落合付近で雄物川に注ぎます。流路延長49.3km・流域面積556kmの1級河川。川名の小安・稲庭・岩崎は地名。上流の小滝から菅生までは峡谷を形成し、大湯付近には緑色凝灰岩の厚い層を浸食した甌穴が所々にみられます。湯元までは硬質頁岩層で幼年期の浸食谷。不動滝は崖高54.8m、菅生までの小安峡谷は古来景勝地として有名です。皆瀬ダムは昭和38年完成した多目的ダム。下流の山麓斜面と段丘面は水田化が難しく、古くから桑・果樹・小麦・葉タバコなどの栽培が行われ、特色ある土地利用形態がみられました。
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皆瀬村についても触れます。皆瀬村は明治22年から現在の雄勝郡の自治体名。川向・畠等の2か村が合併して成立しました。大字は旧村名を継承、2大字を編成。
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川向村は江戸期から明治22年の村名。出羽国雄勝郡のうち。秋田藩領。慶長元年に稲庭村より分村したといいますが、「正保国絵図」では村名は見えません。当村の地域には稲庭村の枝郷として板戸村・仙翁村の郷形を図示。「元禄7郡絵図」で仙翁村を川向新田村と改称し、板戸村・男安村を当村枝郷として470石余と図示。18世紀初頭に新田の字。「享保黒印高帳」で村高840石余・当高599石余(うち本田288・本田並68・新田243)。享保期に市野の清兵衛が忠進開し検地を受けています。「宝永2年黒印高帳」では当高549石余、「寛政村附帳」は当高585石余(うち蔵分240・給分345)、「天保郷帳」は599石余。山村であるうえに皆瀬川の河岸が崖地で水不足に悩み、桁倉沼や貝沼からの堰普請のため貞享年間から文化年間まで営々として周辺の村々から補修人足・費用を拠出。戸数は「享保郡邑記」で341戸(うち川向分49)、「秋田風土記」で250戸。枝郷は享保期から明治初期まで長石田・藤倉・白沢・仏師ケ沢・菅生・瀬野ケ沢・貝沼・皿小屋・小安(男安)の9か村が存続し、板戸・新沢・大谷地・野中・市野・雨生・穴沢・水沢・若畠の9か村が興廃。村鎮守は八幡神社(瀬野ケ沢)。他に白沢の熊野神社、朴坂の奥宮神社及び修験大学院・法正院がありました。南の大高遠山中にある栃湯は明和年間より湯治場として広く利用されました。戊辰戦争では板戸が戦場になったといいます。明治9年新検改租対象地は田206町余・畑134町余・山林原野823町余、戸数266・人口1,408。
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畠等村は「正保国絵図」では稲庭村の枝郷として畑等村の郷形を図示。元文元年川向村から分村して成るといいますが、「元禄郷帳」では畠等新田村108石余と図示し、「元禄15年変地目録」でも独立村となった旨を報告。18世紀初頭に新田の字。「享保黒印高帳」で村高255石余・当高127石余(うち本田66・本田並22・新田39)、「寛政村附帳」は当高131石余(うち蔵分84・給分47)、「天保郷帳」で127石余。18世紀から明治初期まで当高はほとんど変化がありません。享保年間に地頭給人根田久四郎ほか3人が枝郷羽場村の忠進開をした際、3,800間余にわたる羽場堰の維持困難のため、検地後の免40%を従来どおりの30%に下げるように願い出ています。このように免が低いのは、高の85%が畑屋敷高であったためで「物成買納」の村といわれ、タバコを第一の産としていました。山林は広大でしたが大部分は留山で、僅かに薪炭を売る分だけ毎年申請して伐り出していました。また、幕末期に木地山から川連漆器の原木を伐り出しており、年70~80挽程度でした。「享保郡邑記」によりますと畠等は枝郷の滝向・桂沢・滝野原・羽場・外山・生保内・中ノ台・落合・沖ノ沢・新所・若畑・小湯の12か村の総称で戸数214軒。親郷は稲庭村。「秋田風土記」は160軒。明治初期に桂沢・滝野原・新所・若畑の4か村が統合され、枝郷は8か村(外山・生保内は袖浦・下生内となります)に減少。なお小湯村は小安(男安)村ともいわれ「正保国絵図」では稲庭村の枝郷、「元禄7郡絵図」では川向村の枝郷として郷形を図示。湯役銀1貫200匁を負担する温泉場があり、宝永4年の慶寿院ほか110人余の湯治や文化8年藩主佐竹義和一行の来湯など、村民の負担となりました。また仙台領寒湯村との間に小安口番所が置かれ、番所役人などの諸経費を川向村と共同負担し村民の苦難の種となりました。村鎮守は落合の山神社。小湯の薬師神社も有名。安永年間に稲庭村の広沢寺住職石門和尚が創建した曹洞宗洞源庵は、天保年間より無住、やがて廃寺。戊辰戦争では小安口から仙台藩兵が侵入、その帰路において追撃軍との間に激戦があったといいます。明治9年新検改租対象地は田43町余・畑108町余・鹿野畑85町余・山林原野337町余、戸数161・人口887。
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少しずつ蒸気で周囲が白くなってきました。
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明らかに気温も高いです。
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真夏だったら相当暑いかも。
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下から見た河原湯橋。
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大噴湯のこと…『文化11年(1814年)、江戸時代の紀行家菅江真澄が60歳のとき、小安温泉を訪れ大噴湯(地元では、からふけと呼ぶ)を「雪の出羽路」、「勝地臨毫」に克明に記録しています。「湯が三、四丈(9m~12m)も吹き上がり、滝の落ちる川を越えて向こうの岸の岩にあたり、霧となって散っていく。噴湯が岩の裂け目ごとに湯気の雲を湧き起こして、雷神のような響きを立て吹き上げるように湯が出ている。」大噴湯の温泉データ…泉温91.3度、湧出量毎分223ℓ。(平成17年地熱開発促進調査より)』
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菅江真澄が描いた大噴湯「勝地臨毫 出羽国雄勝郡」より。
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大噴湯!
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体感!
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地球の息吹!
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っていうか熱い!
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暑いというより熱い!
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サウナって感じ。菅江真澄が記しているほどの感じではないかも。
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大噴湯突破!
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大噴湯を振り返るの図。
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上に見えるのが河原湯橋。
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皆瀬川。
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皆瀬川沿いの遊歩道を歩いて行きます。
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皆瀬川の急流が長年にわたって両岸を深く浸食してきたことがわかります。
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落差約60m、長さ8kmにおよぶV字谷。
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ってことで、もちろん階段を上らなければなりません。
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こちら(南側遊歩道)の階段は約300段。
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階段途中で振り返るの図。
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小安峡。
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上まで戻って来ました。
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兼子商店噴湯店付近。目の前にスキー場がありました。
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小安峡とことん山案内図。
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栗駒国定公園小安峡温泉周辺観光案内図。
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河原湯橋へ。
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秋田観光三十景小安峡大噴湯(昭和53年度建立※第2位入選。初回昭和27年、2回昭和53年。題字皆瀬村長高橋兵助)。
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河原湯橋からの眺望。
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小安峡。
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大噴湯。
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高所恐怖症の私が撮る精一杯の写真です。
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