
葦名神社大鳥居跡。鳥居は残っていません。鹿角市十和田山根下ノ平になるのかな。山根下ノ平、岡田上野、山根土手ノ上の境。神社からは結構離れた場所になります。

案内標柱と庚申塔一基(芦名沢村講中)があります。

標柱「葦名神社大鳥居跡・芦名沢の観音様」より…『山根の上芦名沢にある葦名神社は、昔から芦名沢の観音様と呼ばれ、馬の神様として拝まれてきた。人々の信仰心を示す馬や牛の絵馬が多く奉納されている。絵馬は鹿角市指定有形民俗文化財になっている。』

上記の大鳥居跡標柱から結構離れ、再び道中の標柱。更にこの標柱から葦名神社入口まで1.8km。

標柱「芦名沢観音伝説の地」より…『奈良時代、ある長者の息子と豪族の娘が恋仲になった。豪族は二人が死んだことにして逃がし、身代わりに二頭の馬を墓に生き埋めにした。旅の途中で夫が死ぬと娘は故郷に戻り、夫と馬の冥福を祈った。これが芦名沢の観音堂の始まりである。』

そしてようやく堂ノ下の大鳥居。
神社の鎮座地は秋田県鹿角市十和田山根堂ノ下です。
湯殿山。読み取れませんが案内板がありました。

但し、紀年銘は案内板の設置日であって、碑自体のものではないかと思われます。

鳥居額束。

芦名沢は黒森山(545.9m)の南西麓に位置し、汁毛川の谷間に南北に展開する集落上芦名沢と曲折して西流する川畔の下芦名沢からなります。「奥々風土記」には「芦名沢村、阿志那佐波と云」とあります。戦国期は陸奥国鹿角郡のうち。陸奥国「鹿角由来記」に「芦名沢村、芦名沢太郎兵衛領知。本名奈良。館有り、式部の館。芦名沢観音札所也」とあります(南部叢書)。このことから鎌倉期入部の地頭奈良氏の支配圏であったことと、信仰上の要地であったことがわかります。なお「鹿角志」本では「館有りシキヒ館と号す。芦原の観音堂の所なり」となっています。江戸期からは鹿角郡毛馬内通のうち。南部藩領。「邦内郷村志」によりますと、蔵入高20石余・給分采地141石余、馬112、戸数66(内枝郷に当たる長戸路・割石分12)で、上記の観音と新山堂・伊勢宮・山神が祀られており、それらの別当と認められる修験常楽院の存在を記載。この他にも宮社が多いので省略すると付記しています。地租改正期の明治9年、山根村の一部となります。
御神木。

結構な大きさです。

鹿角市指定有形民俗文化財「葦名神社の絵馬133点」(昭和49年3月19日指定)より…『馬産の盛んな頃、葦名神社には馬の安産や安全を祈願、奉謝した絵馬が数多く奉納された。絵馬には馬のほか、牛、武者絵などもあり、大小あわせると133点にものぼる。これほどの量が一堂にあるのは県内でもまれである。』

鹿角市文化財「芦名神社絵馬」より…『芦名神社は、もと芦名沢観音堂といい貞観3年(861)慈覚大師の彫んだという像を本尊として創建したものといわれている。江戸時代に南部藩では馬産奨励をしたが、この地でも牛馬の飼育が盛んになり、それとともにこの観音堂も馬産信仰と結びついてきたのである。絵馬は板に馬の絵を描き、よい馬がさずかりますようにと奉納されたものであるが、後に、広く人々の願いをかなえてくれるという信仰の手段とされてきた。ここの絵馬で一番古いのは、元禄8年に納められており、これより2年前に堂再建のとき、役員であった長沢新之丞によって納められたものである。この他百数十点におよぶ絵馬等が保存されている。鹿角市教育委員会』

参道石段。

参道脇の御神木も大きいですね。

社殿正面。
両脇に「観世音」とあります。紀年銘は向って右が「昭和4年4月17日石工成田一同建立」、左が「御大典記念・昭和3年11月10日」。


手水舎。
独特な形。
石灯籠一対(慶應4年戊辰4月吉日)。
手水石。


石灯籠一対(明治23年9月11日※自信なし)。
狛犬一対(昭和10年旧1月17日)。
こちらは何でしょうね。「奉納」の文字しか読み取れません。
下部に彫られているのは馬よりも牛っぽいですね。
葦名神社は「鹿角三姫」の一人である芦名姫にまつわる神社です。鹿角三姫(吉祥姫・政子姫・芦名姫)は鹿角市に伝わる伝説の姫。その昔、芦名沢地区の長者の跡取り息子と、豪族の一人娘の美しい姫が恋仲となりましたが、長者と豪族は仲が悪く、2人の結婚は許されそうにありませんでした。姫は恋の病で床に伏すようになりました。また、息子も姫が病気と聞いて一目会いたいと、豪族の館の周囲を歩いていましたが、怪しい曲者として捕らえられてしまいました。豪族の家では、曲者を捕らえて打ち首にし、姫もその曲者に殺されたと言いふらし、実は二人を遠くに旅立たせて、身代わりに馬2頭を埋没して墓を作りました。ところが旅の途中(もしくは旅先で仲良く暮らしていた頃)で長者の息子は病に倒れ、一人故郷に戻った姫は、自分たちの身代わりになった二頭の馬を哀れに思い、冥福を祈りながらこの世を去りました。月日が経って事の真相を知った長者は、金光明寺十一面観音堂を建て観世音菩薩像を祀って供養をしました。その後、姫も病に倒れて亡くなりました。死の間際に、この寺を詣でた者には良い馬を授け幸せになれるようにしたいと言い残したそうです。これが「芦名沢の観音様」と呼ばれるようになり、良馬に恵まれるよう参拝する者たちで賑わい、多くの絵馬が奉納されたとのことです。
拝殿蟇股神額「観世音」。

木鼻。


拝殿向拝下神額「観世音」。

海老虹梁・手鋏。


葦名神社。鹿角三十三観音霊場第26番札所。法華山芦名寺(芦名沢観音・葦名神社)。御祭神は木花佐久夜比売命、大己貴命。例祭日は6月17日。

貞観3年、慈覚大師の彫んだという像を御本尊として創建と伝えます。江戸時代、南部藩では馬産奨励をしましたが、この地でも牛馬の飼育が盛んとなり、それに伴い当観音堂も馬産信仰と結びついてきたといいます。昭和48年社殿再建。

拝殿内。
正面上部に松鶴図が2面(文化4年林流筆、文政13年仙流筆)。
その他絵馬。
松鶴図同様に両脇に一対になるように絵馬、金剛力士、宝剣の図が掲げられていました。
市指定有形民俗文化財「葦名神社の絵馬133点(付棟札5点)」鹿角市HPより…『馬産の盛んな頃、葦名神社(芦名沢観音堂)には、馬の安産や安全を祈願、奉謝した絵馬が数多く奉納された。奉納された絵馬には、馬のほか、牛、武者絵などがあり、164センチメートル×200センチメートルの大絵馬から25センチメートル×35センチメートルの小絵馬まで133点にものぼり、これほどの量が一堂にあるのは県内でも稀である。絵師については、田中北嶺などの著名な画家も腕をふるっているが、ほとんどが名もない絵馬師や素人の手によるもので、稚拙な作が多いが、それだけにひたむきな信仰心があらわれている。 一番古い絵馬は、元禄8年(1695)に長沢新之丞によって奉納されたもので、煤のため判然としないが金箔入りの目、細やかな鬣、靡く尾、力の入った脚など躍動感あふれる馬が墨で描かれている。また、安政4年(1857)の群馬の絵馬には華麗な千匹馬が描かれ、詣り馬ともいわれている。元禄6年(1693)、延享3年(1746)、寛政11年(1799)、文化4年(1807)、天保13年(1842)の棟札があり、拝殿再建などの日時を明らかにしている。』
法華山芦名寺観世音堂縁起(黒森山常樂院)。

「葦名姫伝説の郷」。

社務所。

鹿角三姫初代芦名姫。ミス鹿角三姫っていった感じのコンテストがあるのかな。※「鹿角市観光アシスタント鹿角三姫」というのはネットでヒットしました。

葦名神社と葦名姫の伝説…『昔、奈良時代の頃、鹿角に孫七長者と言う長者が住んでいた。其の長者には一人のあと取り息子が居た。又、砂沢の市兵衛館には成田市兵衛と言う豪族がいて、其の豪族には玉の様に美しい一人の姫が居た。此の長者の息子と、豪族の娘の姫は、お互いに恋し合い、夫婦になって一緒に暮らしたいと思う様になったが、長者と豪族は仲が悪く、喧嘩ばかりし、結婚は許されそうになかった。姫は長者の息子を恋しさに、重い病になり、床に臥す様に成った。又息子の方も、姫が病気になっている事を聞いたが、親達の喧嘩を考えると、見舞にも行けず嘆き、悲しんで暮らして居た。ある晩、病気の姫に一目会いたいと長者の息子が、豪族の館の周りを歩いていたら、豪族の家来に曲者だと、捕まえられてしまった。次の日豪族の家では昨夜の曲者は捕まえて、打ち首にした。病気の姫も曲者に殺されてしまった。と言いふらした。姫の両親が姫と長者の息子を晴れて夫婦にし、馬二頭を荒むしろに包み、生き埋めにして、二個の墓を建てた。孫七長者は打ち首にされた曲者が自分の息子である事を知ったが、相手が豪族の為、どうする事も出来ず、毎日息子の事を思っては寂しく暮らして居た。二人は豪族の親達のうまい考えで、旅から旅へと諸国を巡り楽しく暮らして居たが、旅の途中で長者の息子が不幸にも病気に成り死んでしまった。残された姫は毎日毎日嘆き悲しんだが、どうする事も出来ず、葬式をすませ、故郷の砂沢に帰って来た。砂沢に帰った姫は自分達夫婦の身代りと成った、二頭の馬の事を聞き、哀れと思い、馬を埋た森のほとりに、寺を建て、亡くなった夫と、罪もなく殺されてしまった馬の供養をした。姫は其の後亡くなる時に、私の死後、此のお寺で供養をしてくれた人には、良い馬を沢山授けてやろう。其の子供達も幸せに暮す事が出来るだろうと言いながら、死んでしまった。一方、孫七長者は息子の打ち首は偽物であった事や、旅に出て、病気で死んだ事も知って怒りも忘れ、二人の身代りに埋められた馬の菩提を拝み乍ら暮した。其の後、都へ上り十一面観世音菩薩像を申し受けて帰り、御堂を建てて朝夕に一生懸命拝んだ。此の御堂は、金光寺十一面観音堂と言われ、遠くからも、人々が集まって来る様に成った。又平安時代の有名な御坊さんである慈覚圓仁大師と言う人が立ち寄り、観世音の仏像を彫って奉納し、「陸奥を、かきわけ行けば葦名寺の栄うためしに法の華山」と言う歌を詠んだ。こうして、此の御堂へ拝みに来る人は、しだいに増え御祭りは、沢山の人で、にぎやかになった。人々は此の御堂に馬を連れて集まり沢山の良い馬が授かる様にと、絵馬を奉納した。此の御堂には、今もこうした絵馬が沢山、昔のまま残って居る。現在教育委員会で、再度調査中だが、680点に達している。此の御堂の近くには、慈覚圓仁大師が仏像を彫る時に入ったと言う岩穴や、身を清める為に、水ごりを取った時に着物を掛けた、衣掛けと言う大きな岩が、今でも残って居る。後に豪族の姫に葦名姫と命名。又、此の御堂を新築し、葦名神社として、神社庁に氏子責任役員共にに登録済みである。錦木塚の政子姫。大日堂の吉祥姫。葦名神社の葦名姫と、鹿角の三姫として、観光の目玉と成って居る。絵馬も鹿角市有形民俗文化財として、名を高めて居る。又宮司和田学さんも葦名神社専属の宮司さんとして神社庁に登録済。今後を背負う若い人方に葦名姫の伝説を記して、上・下・芦名沢部落が、姫の心を宝として伝え残して置きたく、此処に奉納致します。<鹿角伝説の資料並びに、工藤利栄さんの資料参照>2012年(平成24年)6月17日(以下奉納者名省略)』

末社。

石祠。

軍馬慰霊之碑(昭和51年8月15日、旧波第八六一五部隊有志建立、葦名澤部落一同)。

馬頭観音堂。
巨大絵馬。
堂内。馬だらけでした。


石祠。

何かはわかりませんが恐らく馬頭観世音なんでしょうね。


なお、『御室・衣岩(芦名沢の観音様)』は別記事にしております。


























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