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秋田県鹿角市八幡平小豆沢。大日霊貴神社大日堂社務所(平安神社)の横です。大日霊貴神社もすぐ近くにあります。
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曹洞宗瀧澤山吉祥院。御本尊釋迦牟尼佛。
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庚申塔。
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参道を振り返るの図。
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参道石段灯籠。
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地蔵尊。
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山門。
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天上に山門の棟札が見えます。
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山門前の誓願地蔵尊。
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6世紀前半、継体天皇がだんぶり長者の徳を讃えて勅願により創建した寺院が前身。養老2年、元正天皇の命により、行基が大日如来を自彫して再興したとされる養老山喜徳寺大日堂の6坊の一つであり、継体天皇の后になっただんぶり長者の一人娘、吉祥姫の菩提を弔った寺。現在でも長者の娘である吉祥姫の墓所が存在します。かつては吉祥姫の墓の前に樹齢千数百年という大イチョウがありましたが、昭和54年の台風にて倒木。現在は根の部分だけが本堂に残されているそうです。平安時代には奥州藤原氏の庇護下にあり、中尊寺の影響により天台宗となり、養老山吉祥院という寺院でした。藤原氏が滅びた後は荒廃していましたが、慶長8年に角館雲巌寺7世華巌快雪大和尚が曹洞宗の寺院として再興し、瀧澤山吉祥院に改称。開基は野尻左京。
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ちなみに本堂前のここに吉祥姫の墓があるようです。確かに見えます。下の吉祥院由来碑に「亡き銀杏の傍に一碑を建立して、寺史を後世に伝える」とあったので、その由来碑付近かと勘違いして見逃しました。墓正面には「吉祥姫之墓」と刻みます。
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本堂前の平和観音(台座:献納者芳名碑)・参道舗装竣工記念碑(昭和53年6月吉日)・吉祥院由来碑。
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平和観音。
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吉祥院由来碑碑文…『龍沢山吉祥院は、今を去る千二百六十余年の昔、名僧行基によって創建されたと伝えられている。元正天皇の勅命を蒙り、多くの音楽博士や工人を伴ない、はるばる都から下向した行基は、だんぶり長者発祥の霊地に養老山喜徳寺大日堂を建立した。吉祥院は大日堂六坊の一つで、都へ登り人皇第廿六代継体天皇の御后になられた吉祥姫のお墓を守り、その霊を弔うためのものであった。姫の墓印に植えた銀杏は、樹齢千四百年樹高三十数米周囲十米、姫の乳房と呼ばれる十数本の気根を垂れる巨木に成長したが、惜しいことに昭和五十四年三月丗一日、この地方を襲った暴風に倒壊してしまった。中世の初め藤原秀衡の庶長子国衡の庇護を受け、平泉関山中尊寺の影響によって天台宗となり、養老山吉祥院と称し、大日堂と共に里人の信仰の中心となっていた。藤原氏滅亡後この地方は成田氏の所領となり、宮方の勇将成田小二郎頼時と武家方浅利六郎四郎清連、曽我光髙の大里城攻防をきっかけに鹿角一帯は戦乱の巷と化した。慶長八年四月、諸国行脚のついで当地に立寄られた角館町白岩龍沢山雲巌寺七世華岩快雪大和尚は、打続く戦乱のため住僧もなく狐狸の住みかとなったこの寺の荒廃を歎き、曹洞宗吉祥院として復興し、本寺にちなみ山号を龍沢山と改めた。四世代に本堂の改築を施し寺伝によると鹿角三郷士の一人野尻左京の寄進によると謂われている。寛延二年当寺七世代に、堂塔伽藍の大改築がなされ、長年寺十九世聖山を招いて盛大な入佛式を行なった。爾来二百三十年、大銀杏の寺、吉祥姫の寺として里人に親しまれ、十七世代に開山堂内部の充実、十八世代に石壇改造観音堂建立、昭和四十一年に檀信徒の一致協力により、腐朽した本堂が改築され、寺域参道の整備が行なわれた。今やその工を了え寺運興隆の秋に当り、亡き銀杏の傍に一碑を建立して、寺史を後世に伝えるものである。』
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眺望。
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六地蔵。服が素敵です。
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墓碑、無縁供養塔、地蔵尊等。
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鳥居がありました。
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何かはわかりません。
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20.5
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