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大館市比内町達子。達子森。
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参道入口となる鳥居が2ヶ所あります。両方紹介します。まずは本来の参道と思しき方です。
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達子森下の道標。
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達子森下の道標…『この道標は180年程昔の寛政11年(1799)のもので、当時阿仁部その他との盛んな往来を物語る貴重な史料である。当時扇田村は米代川河港として栄え、家300軒程。道は、大館へ、十二所、鹿角へ、大葛金山へ、仁井田、板沢、岩瀬追分と本街道へ、そして八木橋から阿仁街道へといった具合に四通八達に要衝、交易の中心であった。道標は一時片寄せられ、草むらに埋もれていたが、これを発見確認、審議の上、比内町文化財に指定した。昭和53年6月15日指定比内町教育委員会』
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庚申塔。裏面碑文「願主 宝田秀峰氏 寛政十二年庚申八月十日」
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社号標「藥師神社」(達子郷中)。
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参道石段。
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石段上。
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石段は最初だけです。
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石鳥居の笠木・島木。
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山道が続きます。
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きちんと整備されており、歩きやすい道です。
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ちなみに参道では三十三観音巡りができます。
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達子森は大館盆地の南、旧比内町の中心部にあたる米代川の南側に位置。標高207mの独立峰。達子森は大館盆地ほとんどの方角から望むことができ、「比内のヘソ」と呼ばれてきました。「たっこ」の地名は元々アイヌ語の「タプコプ(tapkop)」からきたとされ、「平地に突き出た山。たんこぶ山」という意味で、「たっこ」と同じ語源の名前が付いている北海道釧路郡釧路町の達古武沼、宮城県黒川郡大衡村の達居森、福島県双葉郡葛尾村の竜子山、秋田県仙北市の田沢湖など多くはたんこぶ山の形状をしています。「いこいの森」として市民のウォーキングコースの一つとして親しまれているほか、山頂には薬師神社があり、多くの参拝者が訪れ、毎年旧4月8日の例祭ではイタコの口寄せも行われています。菅江真澄は達子森のことを「風葬の名残りがあって、死者の遺族は四十九日までの間にこの丘へ5回登って祈ると、死者は早く極楽浄土できると信じられている」と記しています。また、「弁慶がこの山を背負って来て、ここで腰を下ろして一休みしたところ、山に根が生えて動かなくなってしまった」「八郎太郎が湖をつくるために山を運んでいく途中で置いていった」という伝説も残します。
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途中で分岐もありますが、方向音痴の私でも間違わなかったので大丈夫でしょう。
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壊れた鳥居がありました。
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どうやら稲荷神社の鳥居のようです。
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稲荷神社。石殿です。
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こちらは読み取れず。
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近くにもう一つ建物が見えました。
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奉納幕には「田代山 旧4月8日」とあります。
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紀年銘は明治9年でした。
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稲荷神社付近からの眺望。
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冒頭で申した通り、ここでもう一つの参道を紹介します。
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ってことでスタートの鳥居に戻ります笑
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薬師神社…『今から三百年位前、栄村(現在の鷹巣町)の太田の長谷川三郎兵衛という人の夢枕に、この山に薬師像を安置せよとのおつげがあった。正覚寺の良因和尚、四人講中の信仰心を結集して上方の名匠に依頼し薬師如来をつくらせた。米代川を船で運ぶつもりであったが、このことが村々につたわると、ぜひ拝みたいという人が多かったので陸路を運んだという。平成14年3月比内町教育委員会』
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こちらの参道は広くて車も通れそうです。
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現在は通行止めになっていますが、舗装もされているのでかつては車道だったと思われます。
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もしくは道中にあるこの配水場のためかも知れません。
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最初に紹介した参道よりも歩きやすいです。
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ここで、中世の田子村について簡単に紹介。戦国期に見える村名。はじめ陸奥国比内郡のうち。秋田氏領となり出羽国秋田郡に所属。初見史料は天正19年正月17日、豊臣秀吉朱印安堵状写。「おさな沢村・田子村」187石余と記載。秋田実季の当知行地と認定。その範囲は犀川西流域の達子・釣田の各村と達子森を含む地域と推定。慶長2年、比内地方の支配回復を主張する浅利頼平は、田子村家数25軒と豊臣方に報告。家数に見る限り比内領内では大村でした。「慶長6年秋田家分限帳」では浅利旧臣に分給され、18石6斗が十二所七兵衛、90石8斗が杉沢右京介、200石が片山喜伝へそれぞれ配分。天正19年の時よりかなり石高が多くなっています。田子森頂上の薬師如来は山岳信仰の対象として崇敬されていました。なお「松前家譜」によりますと、天正11年秋田愛季が浅利義正(勝頼)を謀殺した際、蛎崎(松前)慶広は義正のとどめを刺した功により、比内郡田子村を与えられたといいます。
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続いて江戸期以降の達子村について簡単に紹介。出羽国秋田郡南比内のうち。秋田藩領。十二所所預の管轄で、一部は大館給人の知行地。元和5年大館給人に「たつこ村のうち」の開発を許可した指紙が現存。「正保国絵図」「元禄7郡絵図」ともに304石余の村として図示。しかし、この間に新田開発も順調に進み、宝永年間の郡村改めの際、北部に成立した新田村の釣田村を分出。開発の具体相として十二所給人石井家の開田などが知られます。「享保黒印高帳」では村高605石余・当高511石余(うち本田284・本田並114・新田113)、「寛政村附帳」では当高463石(すべて給分)、「天保郷帳」では511石余。親郷扇田村の寄郷。延宝年間に御材木郷の指定を受け、能代奉行の管轄のもとに青木見継と藩用材杉の伐採・運材の義務を負います。正徳2年の木本米訴訟に参加。戸数は「享保郡邑記」で29軒、「秋田風土記」で40軒。安政年間には枝郷曲り谷地村を加え245人・馬59頭。八幡出水(八幡沼)を利用しての米作が主産業。村鎮守は達子森の薬師堂。明治10年の村勢は戸数56戸・353人・馬76頭、水田49町余・畑17町余(区内村誌)。同年釣田村を合併。同11年北秋田郡に所属。同22年西館村の大字。
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下の写真の向かって右の道が最初に紹介した参道です。合流点になります。
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参道は続きます。
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鳥居が見えてきました。
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鳥居。
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石段。
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御祭神は薬師瑠璃光医王仏。例祭は旧4月8日。悪霊払いの石が中に収められています。今から凡そ400年前、長谷川伊左エ門の創立とされ、当時は木仏の本尊を祀っていましたが、その後扇正覚寺第15世良因義寛上人の発願により、現在の薬師如来の石像が招置されました。
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明治44年に西館村内32社を合祀。大正3年、山麓への移転に伴い堂宇を解体するも怪異事件が相次いだため、薬師如来像は露座仏として山頂に残されました。
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大正6年、二間四面のお堂新築。昭和39年5月に現在の堂宇建立。
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蟇股等。
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向拝。
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向拝下の「藥師堂縁起謹言」…『熟々惟みれば藥師如耒医王瑠璃光佛は衆生が疾病に悩めるを救い給ふ大慈悲の御佛なり。古来我國にて大医王佛として朝野の尊崇を集めその信仰甚だ厚くその堂舎も又多かりき。茲に羽後國比内の里達子森にまつわる藥師堂についてその縁起を記し後世に傳えむとす。比内盆地に臥牛の如く突兀として聳ゆる達子森は比内里に孤立したる奇山にして海抜六百八十尺余有才川の清流其の裾を洗い美林に覆われ住民は土地の霊峯として崇め朝夕に此の森を仰ぎ慕う事一方ならず。今を去る事三百有余年前栄村太田長谷川三郎兵エなる者夢中に感ずる所ありて家に祠る藥師像を此の霊峯が山頂に鎮め石碑を立てしと云ふ。爾後幾星霜を経し中御門帝御宇享保十六年比内の里は云ふに不及全國的な大飢饉起りて村民の困窮はその極に達しその疲弊未だ回復せざるに元文元年亦亦大飢饉に見舞われ米穀類の運搬は固く禁じられ木皮草根を喰らい尽くして尚行路に倒れ野獣の餌食となる者数を知らずさながら此の世の地獄繪と現せりと云う。時に扇田村法王山正覺寺第十五世良因義寛師は此の惨状を見るに忍びず死者の冥福を祈り衆生の苦難を救わんには神佛の加護に依る外に術なしと発心し比内の里に因縁浅からざる達子森藥師如耒を招置せんとしてその勸進に努めたり。之に應じたる人々は明石宅兵エ、宮野伊兵エ、成田夛兵エ、大和屋久兵エ、石垣傳兵エ、筒井理兵エ、佐藤福右エ門、宮嶋拍直(達子)羽澤與七郎(水無)渡邉名右エ門、野呂及兵エ(小新田村)菅原善兵エ(森合)畠山庄右エ門(坊澤)清心坊(赤石)山中志失棍山、松坂屋彌右エ門、(坊川山)金治兵エ(冷水山)平右エ門(坊川山)佐藤茂兵エその他一千人講中を結び初願を達せむ事を念じ尊像彫刻は大阪の名工に依頼せり。然るに翌元文二年悪疫流行し資金集めに障害を及ぼせしも良因義寛師の大願成就の念固く遂に八年を経たる延享元年寄進も纏まれり、彫像も完成し藥師の大坐像及び附属を明石宅兵エ氏が大阪港より船にて能代港に招來せり。此の報を受けし一千人講中の人々及正覺寺住職喜ぶ事限なく船にて能代に下り明石氏の勞をねぎらいたり。さて藥師の尊像は川舟にて扇田に上らせられる事になりしが付近の人々及川沿の村人共請うて曰く我等悪世に世を享け先に数度の飢餓悪疫の為血縁の者甚だ多く失いたり今茲に大慈藥師如來の招來に會うは未曾有の事なり願わくは我等にも尊像を拝し死者の冥福と現在の我等の罪滅と利益を祈らせ給わる事を許し給えと。斯くして船路を廃し陸路村々町々の供養を受け香華浄飯引きも切らず送迎の男子善女老人の身も幼きも共に尊像が引き綱にすがり、善の綱後世の綱菩提の綱と一心に握り遂に扇田に到れり。正覺寺境内にしつらえられたる浄域に安置せる藥師尊像は七日七夜の供養を受けし後開眼式も嚴修し舟形橇に載せられ善女人にて愈々霊峯山頂目ざして動坐せり。時將に寶歴元年旧四月八日稀代の佛事を拝観せむと聞いたる人々は遠く鹿角能代より相集いて沿道人にて埋まれりと云う。此の日櫻花咲き乱れ春鳥唄いしその中を正覚寺住職良因義寛師の六根清浄南無藥師如來の先道の声に和して掛念佛の唱和空に響き一氣に急坂を登られり。斯くして悲願の尊像は峯の雲居の開蓮華の石台に上せ先に長谷川氏の埋めし尊像は時の別当職森田氏に下附し三間四面の御堂を建立し比内の里を一望に収め五穀豊かに民安かれと藥師醫王瑠璃光佛は永へに鎮座し給爾来毎歳旧四月八日には参詣の人跡を絶たずして今日に至れり。嗚呼思えば一千人講中が幾星想の苦難と良因義寛師の大悲願によりて今茲に慈悠温顔の尊像を仰ぐ。此の堂に詣でる人々に告ぐ古人將來の心を我が心とし合掌禮拝の華を捧げ清風光月峯の松風と共に子子孫々に傳え此の霊域に交る縁起を語り傳えよ。因に現堂は明治四十三年神社合併の令により大正三年九月山麓に西館神社建立の為解體せしより露座佛となり異変相次いで起りたる為世話人釣田菅原辰三郎庁具渡邉文之助氏等の努力により渡邉三郎氏の私林を伐り寄進を受け大正六年二間四面の堂舎を建て今日に至る。昭和卅参年旧四月八日法王山正覺寺第二十九世。部落總代羽澤吉助、副總代荒谷小三郎、會計羽澤吉松、達子郷中一同。発起人荒谷鶴藏、委員羽澤万次郎、同右渡邉伊之松、同右羽澤伊之松、同右羽澤定之助、同右羽澤進一、同右菅原龍清、同右菅原鶴松、同右羽澤勇吉、同右本田夛一郎』
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堂宇(拝殿)内。
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正面。
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神額「薬師神社」。
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薬師如来。
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藥師神社建設概要(起草者松江三郎)…『一、着工昭和39年2月6日。一、竣工昭和39年5月3日(※以下収支決算、工事者、建設委員省略)』
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ヒナイノ民話、達子森ノ伝説、達子森ノ伝説Ⅱ。
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薬師三尊(中尊薬師如来、左脇侍日光菩薩、右脇侍月光菩薩)。
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十二神将(薬師十二支厄除守本尊)。
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薬師神社の由来…『比内の達子森は、今より凡そ1500年前大洞年間に、この地方に大地の変動が起り、その時に地殻の割目より熔岩が噴出し、一瞬の間に出来た山だとも言います。海抜207米、八幡平、森吉山、田代山を遥か遠くに望み北東12粁余西南八粁余の比内平野が一望眼下にひらけ、眺望絶佳の山であります。この山頂に、後光明天皇の承応2年(西暦1649年今より315年前徳川家光時代)に栄村太田、長谷川三郎兵エ(現代十四代目長谷川啓司氏)という人夢の中にお告げをうけ、家にまつる薬師像をこの風光明媚の山頂に鎮め、石碑を建てし由(創立石碑現存)であります。爾来、星霜を経た享保16年(中御門天皇)(西暦1731年233年前)全国的に大飢饉が起り、そのため比内の里も村人の困窮極度にひどく、その疲弊未だ回復しない3年目の元文元年(西暦1736年230年前)再度大飢饉に見舞れ、とりあえず食糧類の運搬は「村とめ」「郷とめ」と固く禁じられたため千両箱枕に餓死する有さまであり、更に又野山に草根木皮をあさり、これを喰いつくし道端にたおれ無惨にも野獣の餌食となる者数多く、全くこの世の地獄を現したとのことであります。この有さまを見るに耐えられず扇田法王山正覚寺十五世住職「良因義寛師」は達子森に縁のある薬師如来を召集し死者の冥福を祈り衆生の苦難を救い慰めるため付近の富豪名士を説得しその勧進に努められた。これに応じた方々は、(扇田)明石宅兵エ(現代十五代目明石謙一氏)、筒井理兵エ、成田多兵エ、石垣伝兵エ(達子)、羽沢与七朗(水無)、渡辺名右エ門(現代十三代目渡辺源吉氏)(小新田)、菅原善兵エ(現代羽立十三代目菅原高司氏)(森合)畠山庄右エ門(現代畠山重勇氏)、その他各地の有力者ならびに信者が一千人をもって講中を結び浄財を奉納し初願達成につとめられ、いろいろの障害を克服せられ8年目に遂に寄進が緾ったので延享元年(西暦1744年220年前)に尊像彫刻を大阪の名工に依頼しこれが完成したので大座像および付属を、明石宅兵エが大阪から舟で能代港に招来したそこで住職等が相談し、それより川舟にて扇田に上らせることとなったが付近および川沿のの信者等の講によって陸路村々町々を通ることとなった。送迎の信者は尊像の引き綱に縋り、善の綱、後世の綱、菩提の綱と一心に握り多くの供養をうけ、香華浄飯引きも切らず遂に扇田に到着、正覚寺境内に安置された。このようにして、七日七夜の供養をうけ開眼式も厳修され、舟型橇にのせられ善女人によって愈々霊峯山頂に動座せられた。時まさに宝暦元年(西暦1750年214年前)旧4月8日の佳き日であった。郷土誌より。平成7年2月吉日達子郷中会委員長渡辺伊之松』
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幣殿内。
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堂宇前にも「薬師堂縁起」がありますが、向拝のものと同じ(ルビ、西暦標記等加筆)なので省略します。※この薬師堂縁起は扇田の法王山正覚寺第二十九世大蓮社覺阿良心慈誉正道氏の述、第三十世正蓮社教阿良導眞誉昭寛紫風氏の記、笹館桂清水神社宮司若宮幸男氏の筆書※栄村は現北秋田市栄、長谷川三郎兵衛が家に祀っていた木仏の薬師像を山頂に鎮め石碑を建てたのは承応2年(1653)(旧石碑(悪霊払い石)には承応4年の刻印)、四代将軍徳川家綱の時代、およそ80年後現在の石仏薬師如来像が安置※薬師如来像は高さ90cm幅73cm千人講中と彫られた台座に安置、現社殿は昭和39年(1964)に再建
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幣殿・本殿。
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大谷石のような壁でミソが見られます。十和田石(緑色凝灰岩)でしょうか。いずれにしましてもこの凝灰岩によって非常に趣のある社殿になっております。
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ライオンズの誓いとありましたが錆びていて読み取れませんでした。
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手水石。
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狛犬一対。
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達子郷中一同(昭和39年5月3日竣工)。
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境内社。
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龍神、稲荷様といった感じ。
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石殿。蛇だらけ。
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テレビ中継局送信施設。
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家族が亡くなると、初七日または35日以内に故人の写真や日常使用の品々を奉納し故人の冥福を祈る風習があり、境内にはこれらの品々を納めるお堂が建立されています。
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向って右は…賽銭箱等で見えませんが太平山かな。
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左側は故人の遺影・遺品がたくさん奉納されています。遺影は古いものから順次ファイルに保存され本殿に保管、やがて焼却処分されるそうです。
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遺品についてはこのような注意書きもありました。
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釈迦如来・薬師如来・大日如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩。
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手前にも同様に石仏があります。
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その隣の建物。
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薬師如来。
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七福神。
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堂内にも周囲にも穴のあいた石がたくさん奉納されていました。
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達子森207mからの眺望。
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