史跡砂沢古窯跡(五城目町字羽黒前16)。五城目町立五城目小学校です。広報五城目(昭和41年11月1日・12月1日)に次のような記事「史跡めぐり・消えて行く瀬戸座(砂沢かま)・郷土史研究家分銅志静」を見つけました。
『銅治座の渡辺米蔵さんにはじめて遇ったのは昭和24年の秋であった。そしてその年の冬米蔵さんから銅治座につたわっている古文書の控えをみせられた。その雑然とした記録の中に五城目瀬戸座のことがのっていた。それによると天文13年(今から約420年前)に丹波国丹羽郡大山下瀬戸から千貝、古井、山上、小佐美、土屋の五戸が五十ノ目村に移住して瀬戸座を開いたとある。また慶長3年には五戸のうち山上、小佐美の二戸が大川の四ツ屋に転出したとかいてある。若しこれが事実とすれば、おそらく県内はおろか東北最古の瀬戸窯となるので、すぐ様古老をまわって心当りをたずねてみた。しかし当時は誰一人として知るものがなかった。ところがその後、偶然に田町の池内重五郎氏それらしいものが四渡園の山の中にあるということ、そして以前に荒川権太郎氏がそこから粘土をとってどこかへ送っていたという話を聞いた。この耳よりの話に早速四渡園に出かけてみたが、山は草ぼうぼうで一向にそれらしいものは見当らず、ただ田園に突き出ている畑の中でビードロの美しい釉薬のかかった陶片を五、六片拾った。それを角館の武藤鉄城氏へ送ると、これはまさしく江戸時代の陶片とういことで、間もなく武藤氏が五城目にあらわれた。その時は同じ場所で数個の陶片を採集しただけで、カマ跡は見つからなかった。それから二、三年して今度は日本陶芸界の大御所加藤唐九郎氏が五城目郷土史をみて町へやって来た。その時も小野正人氏、那波三治氏等とカマ跡を探したが、やはりみつからなかった。そして翌年、小野正人氏と秋大の半田教授が山の林の中にのぼりカマの台座を発見した。その翌年昭和32年2月にこのカマ跡は砂沢古窯跡として正式に県史跡に指定された。しかしこのカマ跡は天文13年に創設された最古のものではなく、江戸中期のものと判定された。恐らく最古のものはもっと山の上の方か、あるいは別の個所につくられたのではないかと言われている。坊村の山の奥に瀬戸師沢というところがあり、久保の銅治座跡に近いので、そこを探してみたがついに見つからなかった。今度、五城目町ではこの四渡園一帯に校地(1万2千坪)を求め、五城目小学校を建設することになったが、最初の計画では向って左手の白旗稲荷社も校地にはいってしまうので、にわかに変向し、敷地全体が右手にすべり、この瀬戸座砂沢窯がグランドの一部にはいることになった。そのためにわかに県に史跡解除の申請をしたが、県としては貴重な史跡であるため、窯場は解体しても、何らかの形で史跡は校庭の一隅に保存するようにとの指示があった。そして10月24日に県文化財専門委員の小野正人氏、県工業試験場の工芸課長野口正治氏が来町し、カマ場の解体の指導を行った。その結果、約30度の傾斜を持つ台座の上に、正方形の大きな煉瓦(クレ)でたたんだ巾一間半、行五間ののぼりガマの跡が発見され、附近からは無数の陶片や焼成の道具などがあらわれた。こののぼり窯は四室で段々につくられタキロはほぼ東南に向いている。県内の焼物といえば、仙北郡角ノ館在の白岩焼が有名であるが、その歴史はそんなに古くない。明和8年(今から195年前)に福島の相馬の陶工である松木運七が来て開いたものでその後このカマは秋田佐竹藩の保護をうけ大発展したが、明治維新後急速におとろえて、明治30年代に大体終末をつげたようである。しかし秋田の焼物といえば白岩と言われるほど規模も製産量も圧倒的であって、五城目焼などは全くそのかげにうずもれていたといってよい。しかし五城目のセトザは地方のカマとしては技術的に相当すぐれたものをもっており、その面から五城目セトザが大きく再評価されているのが現状である。とくに注目すべきことは、文政10年(今から138年前)に白岩から吉松という陶工が五城目セトザへ来て、菅原政五郎という陶工から焼物にかけるウワグスリの秘伝書を受けている。その秘伝書は「楽の法秘書清水焼伝」となっていて、それをみると、文政頃の五城目の技術が非常に高かったことがよくわかる。その技術の内容は楽焼、油滴釉、各種各様のものであり、技法は京都清水や瀬戸の系統をうけついでいる。これらは現在の五城目附近につたわっている遺品やカマ跡から出る陶片などから推して、おおむね符合することなので、この五城目焼とは系統のちがったかわった存在であることがうかがえる。県の文化財専門委員である小野正人氏はこのような見地から県内の焼物を大別して相馬系の白岩焼と美濃系の五城目焼に分類している。しかし秋田というせまい土地においては、白岩のような強大な生産地の影響を受けない筈がなく、五城目も後期には白岩と類似おものを多くつくっており、今のこっているもののなかには両者いずれとも判別のつけがたいものがある。しかし五城目のものは土質のためか全体が軽く、そして細工のうすく、こまいのが特徴である。五城目と白岩と同じ大きさの瓶があれば、五城目の方はずっと軽く、高台のつくりなどもするどい感じをもっている。またウワグスリの種類も黒、飴、鉄、紫がかった飴、緑などと変化に富んでいる。県工業試験場の工芸課長である陶工の野口正治氏は五城目セトザから発掘された陶片をみてそのロクロの技術の非凡なことにおどろいていた。五城目には相当すぐれた陶工がおったようである。しかし五城目セトザは秋田藩の記録にものっておらず民間の一企業にすぎなかったようである。しかし焼物の業をいとなむには漠大な資金を要するので、五城目町の富豪の誰かがそれを支えておったものと思う。秋田藩保護を受けなかった五城目焼は幕末の太白焼(白い焼器)の流行などに押されて、維新の十年ほど前に廃絶となったようである。その終末については何も徴すべき文献がない。しかし天文という早い時代から三百年近くもこの町に製陶の伝統がつづいたということは、それを支える五城目の終済や文化の高さをものがたっている。と同時にその有力な販路となった五城目市場の存在も忘れてならない。また前にのべた文政の秘伝書をみると、当時五城目のセトザは五十目瓦山と呼ばれていたようである。県史跡に指定されたカマ場の下の方に瓦を焼いたカマ跡が二ヶ所ばかりあったが、それも五小グランドの尊いいけにえとなって永久に消えることとなった。』
案内板より…『天文15年(1587)8月尾張国から五人の陶工が当地に移り、地頭五十目藤原内記秀盛の保護によって瓦山に瀬戸座を開いた。昭和32年(1957)に発見された窯跡は、背後の藤原氏の居館砂沢城跡にちなみ砂沢古窯跡と命名された。窯が開かれて瓦山の地名となったと思われるが、後は俗に瀬戸沢とよばれていた瀬戸座の場所は、以前は良質の粘土が採取できる高台で、運動場中央あたりに登窯跡、その南したに二基の瓦窯跡があった。昭和41年運動場造成工事によって、窯跡は取り除かれ、その後秋田県史跡の指定も解除された。五城目町・五城目町教育委員会』



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