五城目城(別称砂沢城)。町の中心部から北側に突き出た前平山は、五十目内記が砂沢城を築いた地。山頂には天守閣風の森林資料館(五城目町森林資料館五城目城・入館料無料)があり、林業の器具類や郷土の歴史に関する展示がされています。最上階の4階バルコニーからは眼下に市街が一望。男鹿半島、太平山、鳥海山まで見渡せます。ってことで模擬天守です。
森林資料館(模擬天守)までは車で行くことも可能。歩いて登る道もあります。徒歩の場合15分ほど。下にも上にも駐車場はあります。

前平山観世音霊場入口。※碑の紀年銘は昭和15年7月。
鳥居の額束には「明徳稲荷大明神」とありました。

三十三観音を拝みながら模擬天守(森林資料館)まで歩いて行けます。道はきちんと整備されていました。

「具足神通力 廣修智方便 十方諸國土 無刹不現身」彦兵衛薰沐拝書。

「名勝四渡園」…『前平山の頂上あたりから麓一帯のこの地を「四渡園」という。五城目町の名家である渡辺家一門の共有する公園という意味である。前平山は天正16年(1588)五十目(藤原)内記秀盛が砂沢城と呼ばれる館を築いた場所である。大正年間、渡辺家四家(渡辺美濃助・渡辺彦兵衛・渡辺全之助・渡辺徳太郎)では、山麓に茶亭を設けるなど、庭園風に整備して四渡園と名づけ清遊の場所にするとともに町民散策の地として開放した。昭和初年には、明治以来の社会福祉事業「陰徳講」を経営していた渡辺全之助が中心となり、この地の山林を基本財産に、四家で育英事業のための「渡辺恵愛財団」の企てもあった。さらに、昭和15年には町内外有志によって三十三観音(高橋萬年先生絵)が建立された。渡辺家四家のうち二家は東京に移り、それぞれ当主も変った。所有者は在地の二家と他の一家となったが、四渡園の名はそのまま続き、町民の憩いの場として引き継がれて現在に至っている。五城目町長加賀谷力司』

『太陽に問えば明日があると言う 銀雨』…「五城目町功労章受章。すずむし吟社主幹。渡辺銀雨(彦次郎)。川柳すずむし吟社創立50年と喜寿を記念し川柳句碑を建立する。昭和60年9月句碑建立賛同者一同」。

まだ少ししか登っていません。
観世音菩薩建立發願文。


このように階段があるので楽です。

二十二番。

三十三観音の配置がよくわからないまま…

上まで来てしまいました。

ここで五城目について長々と記します。「ごじゅうめ」「ごじゅうのめ」「ごじょうのめ」もしくは「いそのめ」ともいい、五十目・五拾目・五十野目・五拾野目とも書きました。磯見も当地であったかといいます。馬場目川の中流域に位置。富津内川との合流地点右岸の自然堤防上に中心集落が発達。地名は令制郡郷の率浦郷の「率」の目から転化とする説、周辺に5つの城を控えた中心地とする説があります。北方の山地にある砂沢城シラス館は「続日本紀」記載の狄志良須の根拠地と言い伝えられ、古代の開基という真言宗高性寺など古代の伝説も多く残します。「ごじょうのめ」を「ごじょうめ」と正式に読むことにしたのは明治以降とのこと。五十目郷は戦国期に見える郷名。「慶長6年秋田家分限帳」で、樋口村以東の馬場目川流域の村々の総称名として五十目郷又は五十目庄と記載。確認の範囲だけで12ヶ村が含まれていました。近世秋田藩政下でも「五十野目村之内三内村」「五十目山内村」「五十目あさみ内村」のように総称名を継承。山内城主三浦氏が五十目氏を称し、砂沢城主藤原氏も五十目氏を称しました。郷の領域は初見史料の慶長6年を遥かに遡る時期に成立していたとみられています。近世以降の五十目村の母体となる集落は、天正-慶長年間には上町村と称し、砂沢城の城下町として成立。天正17年湊合戦の結果、三浦系五十目(山内)氏・馬場目氏など当地域の城館主が湊方に加担し敗れた中で、砂沢城主のみ檜山の秋田実季方に味方し、以後城下は発展の一途を辿ります。砂沢城(前平山)麓から近世に元弘元年銘の石碑が出土し、またこの前後に高性寺を堂ケ沢に移転し、修験泉蔵院を別当とする神明社も開創されたといい、上町村の集落成立を14世紀頃に求める説もあります。八郎潟東部地域から阿仁・比内地方への通路を扼す地点に位置。五十目村は江戸期より明治29年の村名。秋田藩領。村名ながら実質は町の機能を持ちました。「享保郡邑記」で298軒、「秋田風土記」で町中700軒余と記す戸数は、秋田郡下283ヶ村中最大の集落です。上町・下町・御蔵町・新町・川原町・古川町・田町・仲町・長町・入舟町・米沢町・築地町・下新町・今町・小池町・畑町・新畑町などの町名があります。「政景日記」元和7年7月10日条に「五十ノ目馬町立候ニ付、見物として半右衛門被参候間、同心致候」とあり、既に馬市で賑わっていましたが、寛文4年に正式に2・7の日の六斎市開催を許可。宝永5年・安永5年の市制札も現存。町の様子は菅江真澄「遊覧記」や石井三友「秋田繁昌記」などに詳しく掲載。金屋座・瀬戸座・線香座・米座・油座・紙漉座などがあり、醸造業・木挽業・呉服業など商工業関係者も集住。寛政-文化年間には藩の御役屋・杉皮買立所も設置。周辺の寄郷13ヶ村の親郷でもあります。馬場目山や中津又山など藩の御直山・御薪炭山の管轄のため、当村にも藩政初期から山守が置かれ、文化10年には藩士白土氏が監督担当官として当村に駐在。当地方の政治経済上の中心地でした。「正保国絵図」「元禄7郡絵図」ともに367石と図示。延宝年間に藩士渋江宇右衛門・後藤理右衛門らが得た当村内開発の指紙3点にみられるような新田開発もありますが、「田地不足なり、市の助け、阿仁の余勢を以渡世す」という当村の評価が正鵠を得ています。当村肝煎多右衛門が西野・石崎・山内・浅見内の各村で忠進開に成功している状況。「享保黒印高帳」で村高386石余・当高429石余(うち本田365・本田並18・新田46)、「寛政村附帳」で当高418石余(うち蔵分156・給分262)。「天保郷帳」では429石余。鎮守神明社の他十三騎社・市神・地蔵などを祀り、寺は真言宗山王山高性寺(久保田町宝鏡院末寺)・曹洞宗大竜山珠厳院(泉村天徳寺末寺)・浄土宗正法山常延(演)寺(久保田町誓願寺末寺)・一向宗了堅(賢)寺・日蓮宗本光山宗延寺及び修験泉蔵院があります。幕末期の寺子屋は各寺院開設分を含め9ヶ所。明治7年森嶽学校(五城目小学校)開校。同11年南秋田郡の村として近隣12ヶ村の戸長役場所在地となり、同22年町村制施行後も単独の自治体として存続。当時の戸数785・人口3,950。同29年町制施行。

森林資料館。
うん?
森林資料館の正面に十五番がありました。

更に十六番も。

案内板「砂沢城跡」(所在地:五城目町字兎品沢62)…『砂沢城は藤原内記秀盛の居城である。天正年間(1580年頃)の安東秋田氏の内紛後に五城目(五十目)地域を支配するようになった藤原氏は五十目氏を称するようになる。その際「市」も馬場目城下から五城目に移ったとされる。狭い山城であるが本丸跡の発掘調査によって整地、盛地跡、柵列跡が確認され、帯郭、物見跡なども残り、麓の四渡園のあたりは城主の屋敷跡と見られる。典型的な中世城館跡である。慶長6年(1601)秋田氏の転封により五十目氏もこの地を去り城は破却されたが「市」や「座」を保護し五城目の基礎をつくった五十目氏の居館として大切な史跡である。五城目町・五城目町教育委員会』

案内板より…『1585年頃、藤原内記秀盛がこの地域に配置され、砂沢城を築きました。その後、大正年間に本町の名家である渡邉家四家が、この城跡を「四渡園」として整備すると共に、町民散策の地として一般に開放しました。この道路は、昭和59年林業構造改善事業によって開館した森林資料館「五城目城」への道路として、四渡園の所有者の渡邉靖彦氏・渡邉勝男氏・渡邉峯男氏より用地のご協力を得て、平成6年11月開通したものであります。延長767米、幅員4.0米、駐車場247平方米。五城目町』

模擬天守の最上階まで行かなくても十分景色はいいですね。
森林資料館五城目城パンフレット。1F五城目の自然、2F木材の歴史、3F木工業製品の紹介、4F五城目展望所。「城を囲むように巡られた散策路には、御詠歌の順に一番から三十三番までの石碑が建っています。」と書かれていました。

館内へ。
無料の割には見応えがありました。秋田県ってこういう場所が全般的に安い気がします。

動物もいたし。


五城目町に生息する動物たちの剥製です。

樹齢1500年の屋久杉。

鍛冶職人。

桶職人。

遊びと発見のコーナー。

4Fへ。
太平山や鳥海山は見えませんでした。
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