平川市南田中村内。旧村社熊野宮。社号標「村社熊野宮」(大正8年4月17日建之)

御大典記念(昭和3年11月10日)。鳥居建設寄附人名が刻まれています。

鳥居(平成27年7月16日建立)
住宅に囲まれた参道。

「(伝)田中館跡」標柱…『田中館は、天正七年(1579)の茶臼館の戦(六羽川の戦い)で大浦為信の身代わりとなって討死した田中太郎五郎の嫡子惣右衛門宗久の館跡とされる。』

両部鳥居。
立派な注連縄(南田中町会奉納)

参道。
神前橋(昭和16年7月竣工)

石灯籠一対


昭和13年3月かな…自信なし。

手水舎。

手水石(昭和55年8月21日、北日本一生會)

御神馬一対(日支事変奉献、皇紀2600年、昭和15年旧6月17日、黒石山形町石工才藤幸次郎)
不明の石(明治四拾申年旧六月拾六日、小田切山三郎建之)


狛犬一対(明治26月6月16日)※自信なし
忠魂碑(明治43年1月27日建之)

境内社。

石灯籠一対(明治18稔6月16日)




手水石。

社殿。
由緒等については前回の記事を参照ください。
前回の記事:『熊野宮 & 田中館 (平川市南田中)』


拝殿向拝。



拝殿向拝神額。

本殿。

石碑を見ていきます。

熊野宮神社拝殿・社務所改築記念。

『沿革…明治十五年旧六月十三日壬午吉祥日を以って当時戸長小田桐長左衛門の世話方葛西秀三郎外八名で熊野宮神社を建立しましたが余りにも老朽化したので今回深澤山の一部が浅瀬石ダム工事による水没と碎石竝に道路等の代償金及び売渡金により現住民一同協議の結果熊野宮神社の拝殿竝社務所の改築工事をする事になり昭和五十五年八月二十一日を以って其の完成を見る事になった次第である。昭和五十五年八月二十一日 尾上町長葛西秋雄敬白 宮司小野敬規撰並』

満洲事変記念碑(昭和10年9月18日建之、正八位藤本武治書)

裏面は満洲事変出征兵名、發起人名、後援者名。

平和祈念の碑(昭和56年10月10日完工、笹恒貞書、石工今良三)…『【趣意】昭和十二年七月七日、北京西郊蘆構橋事件勃発し、日支事変となる。更に昭和十六年十二月八日、太平洋戦争に発展。日支事変を含めて大東亜戦争と呼称す。戦域はアジヤ大陸、太平洋諸島、北はアッツ、キスカ島等に及ぶ。この戦争に当集落から前途ある若者、続々と応召され。その数二百四十余名に達す。異国の地で、幾度か死線を超え、悲惨な戦いを強いられ奮闘せるも、戦争は長期にわたり、戦力は衰え、遂に昭和二十年八月十五日終戦となる。この戦いで尊い生命を犠牲にされたもの五十余名。誠に痛恨に耐えず、深く哀悼の意を表す。今日集落民は、新しい村づくりに励み、豊かな平和な生活を享受するに至る。これ畢竟するに、五十余名の戦没者の遺志に想いを馳せ、激戦苦闘せる戦士の意志を汲み、辛苦欠乏に耐えた集落民の志のもと、戦争を拒否せんとする切願のなせるものである。よって茲に戦役に係わりし者並びに趣旨に賛同する者をもって、永久平和を祈念し、この碑を建立せるものなり。【補記】一.趣旨は、新装なる東公民館にて昭和五十五年度南田中集落総会に決議されたものなり。一.建設費は新浅瀬石川ダム建設に伴なう分収金の一部と会員の醵出金によるものなり。』

「(伝)田中館跡」(平成26年12月平川市教育委員会)…『田中館は、田中太郎五郎の嫡子惣右衛門宗久の館跡とされる。田中太郎五郎は、永禄11年(1568)に甲斐南部庄より津軽に移り、知行百石を賜り馬添役として大浦(津軽)為信に召し抱えられた。天正7年(1579)に為信により、津軽を追われた滝本播麿守、北畠左近、南部六郎、七郎兄弟等が比内の浅利実義の援護をうけ、三百騎余をもって津軽奪還のためにおこした茶臼館の戦(六羽川の戦い)で大浦為信の身代わりとなって討死にした。津軽平定後、この太郎五郎の功績を讃え、嫡子宗久が12歳となったとき二百石に加増され、その知行地として金屋、田中、新屋方面の俗に粘餅田という上田三百人役を与え、永く功臣の家として遇したという。』※少しだけ付け加えます。まず館の存在については田中家由緒書及び津軽一統志に明記され、場所については津軽東長根歴史絵図に明示。田中館の周辺には堰堤が巡らされていたといわれますが、堀は水路とされ、土塁は開発によって壊されています。田中惣右衛門宗久が現在の田中村に居を構えて田中館と称したのは天正8年で、長坂沢方面の守りに当たっていたものと推定。慶長3年11月20日に平賀郡御代官を仰せ付けられています。慶長5年に尾崎喜蔵の反乱があり、喜蔵の妻子とその一族200人が尾崎城に立て籠ったため、奥村民部とともにこれを攻めることになりましたが、惣右衛門は城内の者たちを説き伏せて、一戦も交えることなく城を明け渡させました。この節、切明口御領南部押さえのため、新屋の館を下し置かれ、外館・西館とも支配。慶長11年3月10日宗久が38歳で病死。親惣右衛門宗久家督200石を三代目田中勘右衛門治重が相続し、慶長19年正月12日、勘右衛門平賀郡御代官を仰せ付けられます。寛永10年津軽藩主三代信義公が15歳にして江戸家老船橋半左衛門長真に付き添われ初めて御国入りしましたが、江戸家老船橋と国家老が反目し、お家騒動に発展(船橋事件)。寛永11年8月、田中勘右衛門は命により東長根にいた一族郎党65人を召し連れて弘前に移住し、弘前城三ノ丸の守備に当たりました。つまり田中氏一族が東長根にいたのは二代惣右衛門が居館した天正8年から寛永11年までの54年間となります。

茶臼館の戦(六羽川の戦い)。
以下、関連記事
『乳井茶臼館城跡』














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