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秋田県湯沢市岩崎千年。
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岩崎城は戦国時代、仙北平野を見渡せる要地に館を構えていましたが、最上軍の侵攻によって落城しました。江戸時代、岩崎には雄勝八郷を束ねる秋田藩の奉行所が置かれていました。また、皆瀬川の渡船場であり、湯沢と横手の双方から役人が配置される交通の要所でした。現在は城跡全体が千年公園として整備され、石垣、玉子井戸、八幡神社、水神社、鹿島様、藤棚等が点在しています。
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岩崎八幡神社岩崎水神社鹿島様については別記事にしております。
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市北部の皆瀬川左岸にある標高314mの天ヶ台山から北西に延びた丘の先端部に位置する平山城で、標高110m、比高差30m。城の西側に羽州街道岩崎宿があり、羽州街道と皆瀬川の監視を目的とした湯沢城の支城でした。
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三の丸は本丸の南側に位置。規模は東西約60m、南北約70m。三の丸には玉子井戸があり、集落が存在しました。
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岩崎郷土伝承かるた「能恵姫の昔を偲ぶ玉子井戸」。
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舊城主岩崎河内守家玉子井の碑。
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玉子井戸。城主岩崎道高の娘である能恵姫が生まれて少し経った頃、なぜか泣き続けるようになり、色々と手を尽くしましたが効果がありませんでした。その数日後に乳母が庭で卵形の石を拾い、それが姫を落ち着かせたので守り石とされました。その守り石が置かれていることから(玉子井戸)と呼ばれるようになったそうです。
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こんな感じになっていました。深さは約5mあるそうです。
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明治35年7月の紀年銘がありました。
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玉子井戸…『第14代目岩崎城主・河内守道高に、弘治元年(1555年)4月、一女が生まれ、能恵姫と名付けました。姫が生まれて百日余りが過ぎたころ、夜昼泣き続けました。医師の手当ても祈願も効果がありませんでした。夏のある日、乳母のサワ(霊符山福正院十七世智学法院栗田五郎の妻)が姫を抱いて庭を散歩し、松の大木の下に来たところ、急に姫は泣きやんで笑みを浮かべ、すやすやと寝入りました。松の根元には卵の形をした石があり、色といい光といい、普通の石ではありませんでした。道高公はたいへん喜んで、その石を姫の「守り石」にされました。玉子井戸にはこの「守り石」がまつられています。井戸はまた、雨ごいの神が住むと伝えられており、深さは約5mあります。千年公園愛護会が平成4年夏、この井戸を清掃した時、白くつるつるした光沢ある「守り石」を発見し、岩崎資料館に7日間展示し、再び井戸に収めました。平成21年10月岩崎地区藤と鹿島の里プラン会議』
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岩崎郷土伝承かるた「町興し竜神太鼓鳴り響く」。
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能恵姫像。
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秋田三大伝説「能恵姫物語」…『弘治元年(1555年)四月、岩崎城十四代城主道高公に一女が生まれ能恵姫と名付けました。生後百日過ぎ、姫は昼夜の別なく泣き続けるので、白藤妙神に祈願をさせました。夏のある日、乳母のサワが姫をあやしながら庭に出て松の下を通ると、不思議に姫は泣きやみ、すやすやと眠りに就きました。見ると松の根本に形といい光沢といい普通にはめったに見ることのできない卵形の石がありました。道高公は喜びその石を姫の守り石としました。姫が三歳になったある日庭で遊んでいると美しい小蛇が現れました。女中が戯れに「姫の用便を掃除してくれたらやがて姫をお嫁にくれてやるよ」と言いました。すると小蛇は姫の用便を食い去り、以後も毎日掃除を繰り返すのでした。姫が十六歳になった天正元年八月、川連城主経道の嫡子藏人道基との婚約が整い、式の日取りは同年十一月初丑の日と決まりました。婚礼の美しい行列が城を後にして皆瀬川を渡りかけたとき、それまで晴れ渡っていた秋空が見る間にかき曇り、大嵐になり、騒ぎの中で姫は行方不明になりました。翌年二月、サワの夫栗田五郎智学法印は皆瀬川のサカリ淵に臨む桐の枝を切ろうとして、おのを淵に落としました。おのを取ろうと法印は水に潜ると大きな岩穴があり、そこには姫がたたずんでいました。姫は「過去の因縁により大蛇に見込まれた。これより竜神に仕える。人々の水難を除き、地域を守って罪業を滅ぼす。これは形見として川連藏人殿に届けてくだされ」と、くしとかんざしを法印に渡して、岩穴の奥へ行ってしまいました。智学法印は無我夢中でお城に帰り、そのありさまを道高公に申しあげ、川連城にも早速形見の品々を送り届けました。川連城では宿縁とあきらめて姫のため一寺を建てました。この寺は河秀山龍泉寺と号します。姫の位牌の戒名は「當寺開基龍泉寺殿禮府妙見大姉」で、現在も龍泉寺に祭られています。岩崎城では以前からの水神社を再建し、改めて姫を祭り、十一月初丑(旧暦)の日を例祭とし、現在も例祭は続けられています。岩崎城址本丸下の玉子井戸には姫の守り石が祭られています。平成六年(1994年)六月五日建立 前湯沢市長高畑進謹書 建立委員長石川寅太郎文 小山清一彫像原型』
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岩崎郷土伝承かるた「運動会桜爛漫館の跡」。
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岩崎簡易水道記念碑(昭和56年7月1日建立、湯沢市長伊藤準助)…『一、創設:昭和8年12月1日、給水戸数114戸、給水人口570人。一、市営移管:昭和35年1月1日。一、上水道編入(水源枯渇等による):昭和56年7月1日、給水戸数142戸、給水人口519人』
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裏面碑文…『昭和八年八月上丁中丁下丁ノ三丁ヲモツテイワユル三丁水道組合ノ設立ヲ見九十八戸ニ給水ヲ開始シ当地方ニ於ケル簡易水道ノ嚆矢トシテ四隣ノ羨望ヲアツメ人ワレ共ニソレヲ誇リトシタトコロデアツタ尓耒二十有五年ノ春秋水ニ親シミ水ヲ愛シ朝夕ノクラシヲタテゝキタトコロヨウヤク施設ノイタミガ目立ツ所トナッタノデ昭和三十三年コレガ改良ト拡張工事ノ話トナリ翌三十四年九月湯沢市営ヲモッテ配排水管ノ取換エ水源ノ改良工事等又千歳公園ノ髙台ヲ選ンデ配水池ノ新設ニ着手シ同年十一月目出度ク完成ヲミタノデアル現給水戸数百二十七戸茲ニ初志ヲ貫徹シ後顧ノ憂ヲ断ツタ三丁水道組合ハ有終ノ実ヲ結ビマタ施設改良実現ノタメノ岩崎町水道促進委員会モ目的ヲ達成シタノデソレ等ヲ永ク記念スルタメ此ノ碑ヲ建立スルモノ也 昭和三十六年四月陽春建立』
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三の丸。
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19.5
三の丸から本丸方面へと上がる階段。
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二の丸には高辻神社(妙見神社)が鎮座。
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21.5
『八幡神社(湯沢市岩崎千年)』の記事内で紹介しています。
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22.5
二の丸は本丸の西側に位置する長方形の郭で、規模は東西約70m、南北約100m。東端に櫓台(高辻神社)があります。
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23.5
蚕影山大神養蚕豊饒祈之碑(明治30年3月23日、髙橋源之助)と小祠。
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紀元二千六百年御歴代天皇山陵謹拝完了紀念碑(橿原神宮宮司従四位勲三等菟田茂丸敬書)。
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裏面碑文…『昭和十五年十二月十日建立 謹拝同行者岩崎町勲七等功七級髙橋宇吉、横手町松木吉右衛門』
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御大典記念碑…『昭和三年十一月 千年遊園地 正三位勲一等水野練太郎書』
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建長・文永年間(1249-1274)藤原河内守が岩崎城を築城。戦国時代、城主の岩崎氏は小野寺氏の庶流で、湯沢城の北側を守備していました。天正18年(1590)奥州仕置で雄勝郡は最上氏の領土とされましたが、横手城主小野寺義道はこれを認めずに雄勝郡の支配を継続。これを聞いた山形城主最上義光は、文禄4年(1595)、楯岡城主楯岡満茂が率いる軍勢を湯沢城に差し向けました。湯沢城が落城して次の目標が岩崎城だと推測した岩崎義高は、小野寺義道に援軍を要請しましたが、同日に今泉城、角間城、鍋倉城、植田城、新田目城が最上軍の攻撃にあったために岩崎城には手が回らず、ほとんど援軍が来ませんでした。その後、前森城主原田大膳が岩崎城に夜襲をかけ、城主の岩崎義高は討死して落城。その後、原田大膳が城主となりました。以後、岩崎城は最上氏の城になります。
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慶長7年(1602)佐竹義宣の移封後は佐竹氏の城となりました。元和元年(1615)一国一城令により廃城。天明5年(1785)菅江真澄が旅路の途中でこの城跡に立ち寄ったといいます。慶応4年(1868)佐竹義諶は拠点を椿台城から移して、岩崎城址南麓に岩崎藩陣屋を構えて岩崎藩を置きました。明治38年(1905)9月14日に本丸の東の堀に奥羽南線(現JR奥羽本線)が開通。現在は千年公園として整備されています。南麓には岩崎藩陣屋の殿舎が移築されています。
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菅江真澄の道「岩崎城跡」…『男や女たちが声のかぎりに「岩崎のたてのみこしの沢かじか日さえくれゝばこちゃこちゃと」とうたっている様子にふれている』・『天明5年(1785)3月19日古城跡(岩崎城)にて遊ぶ「小野のふるさと」』
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本丸はL状の郭をしており、規模は東西約70m、南北約100m。
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31.2
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31.8
南側に1段、北側には3段の曲輪があります。
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現在は本丸の東側の堀にはJR奥羽本線が通っています。城の北部を皆瀬川が流れ、天然の堀の役目を担っていました。
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33.5
本丸跡・見晴台には石碑や標柱がいくつかありました。
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岩崎郷土伝承かるた「殿様も珍味珍味と鰍汁」。
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岩崎郷土伝承かるた「明治三十八年岩崎鉄橋開通す」。
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岩崎八景「館の晴嵐」。
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石碑(昭和34年4月吉日建立、石工石川甚助)…『岩崎城趾一帯は史實と傳説に富む自然の遊園地で藤花の名所として古くから近郊人の遊技の地であったが風光に比し規模が小さく郷人の遺憾とするところであった偶々昭和六年御大典記念事業として本町の高橋宇吉氏が八幡神社境内接續地貳千参百坪と數万金を投じて公園としての風致を完備するに至った爾來幾星霜昭和三十二年に至りこの地の分割處分が企圖されたことを知った初代湯澤市長伊藤仁右衛門氏が大いに憂え私財を投じてこれを得昭和三十三年四月市長満期退任を記念して湯澤市に寄附されたのである郷人一同永くこの美舉に感謝報恩せんためこゝに建碑したものであるが山紫水明の地皆瀬の清流にのぞみ遙かに鳥海の霊峰を仰ぎ雄平の野を一眸にあつめて眺望秀麗を誇るこの地は永く市民の愛護を受けられんことを祈るや切 湯澤市長菅圭一郎撰 最禪真海書』
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