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平川市原田稲元。部落の南端、岩館部落からの道路沿い50mほど東方に入った場所。津軽忠臣之碑 ・ 田中太郎五郎戦死之跡と、岩館の天照皇大神宮の間くらいに鎮座。
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参道入口は境内の北端にあり、石碑が一基建立されています。石碑には「沼㟢村権四郎神霊」「正月十六日」と刻まれているそうですが・・・う~ん・・・ほぼ読み取れません。
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鳥居。
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鳥居神額・注連縄。
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『明治四年神明宮境内には鳥居が二宇あった。昭和初期に一宇が奉献されて三宇となったが、近年朱塗の木造両部鳥居の腐朽が甚だしく、同志相諮り新たに平成六年(七月十六日)両部鳥居を奉献することとなった。奉献者氏名、斉藤忠博、斉藤忠芳、斉藤ヤサ、岩渕高雄、岩渕清光、藤田聖仁、岩渕勝弘、福士文夫、岩渕孝夫、岩渕武幸』
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社号標「天照皇太神宮」(明治39年旧4月16日、日露戦役紀念・村中)
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由緒等については以前の記事も参照ください。
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以前の記事:『神明宮 (平川市原田)
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石灯籠一対(明治32年旧4月16日、齋藤七エ門)
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10.5
鳥居。
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石灯籠一対(昭和53年4月吉日建立、石工福士昌幸)
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12.5
神明宮拝殿新築記念碑(昭和60年7月16日)
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手水石(昭和2年12月7日、岩渕清江)。古い手水石の上部のみを改築している感じ。
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創立20週年記念(納期内完納・原田納税貯蓄組合組合長成田孝一、昭和48年12月28日建之、大湯石材刻)
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義民原田村伝兵衛顕彰碑(揮毫平賀町長原田忠太郎)。下部台座碑文…『撰文 岩渕清作 碑文書 書岩渕藤江 協力者 岩館村斎藤譲 発起人及び寄贈者 岩渕正太郎、村中 昭和57年正月16日建之 石匠大湯行夫』
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16.5
裏面碑文…『文化八年(1811)八月十八日 尾崎 大光寺 大鰐の三組の百姓約三百人が 柴草刈場のことで 三ッ目内村領芝之沢(藩有)で山役人に乱暴を働き更に宿川原の代官所に強訴する事件が起った 発端は三組十六ヵ村に草刈場を解放するよう願出で郡奉行から許可され百姓たちが山に入ろうとし山役人と争論になり村の重立に伝えると約束がちがうと憤激し強訴すべく原田村伝兵衛(44歳)が檄文を書き石郷村庄屋兵助(36歳)が十六ヵ村に廻状し起ち上り芝之沢の山役人に暴行を働き代官所へ抗議文を渡し引き揚げた 藩庁が調査の結果 首謀者を 伝兵衛 兵助として指名手配した 兵助は一年半後に捕まり鞭刑三十 大場構 十里四方追放になり伝兵衛は行き方知れずに終った 藩は役人の手落ちとして郡奉行を免職し山役人はそれぞれ格下げとなり 入会権を許され成功した この事は つがるの夜明け誌等に掲載されている その後芝之沢(メンチャ)は関係部落農民の経済生活にも永く及ぼした恩恵は計り知れないものがある 時世の変遷により入会権は昭和三十年に解消し所有権も移転となったが事件後百七十年を経て伝兵衛の義挙を後世に伝えるため部落民相諮りこの碑を建立する』。百姓一揆の大要と、伝兵衛の果たした役割と結末について明細に書かれています。
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庚申塔(文化六己巳年七月二日村中)
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狛犬一対(明治38年1月16日、発起人石工岩渕宗次郎ほか37人の奉献)
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19.2
19.4
19.5
19.6
19.8
社殿と松の木。
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御祭神天照皇大神。例祭4月16日(7月16日)。旧村社。境内地303坪、拝殿12坪、本殿1坪。
元和年間の勧請と伝えるも由緒沿革は不明。明治5年に神明宮と改名。
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貞享4年御検地水帳には、観音堂地 六間×四間 弐拾四歩 堂建有之 村中抱、古堂地従古来除来付新検吟味之上前々之通除之者也…と記載。藩内神社調(明治4年)「原田村」より…『一、神明宮当村産神 並勤小山内為織 一、祭神天照皇太神 一、祭日4月18日、8月16日、右者元和年中勧請 一、本殿四尺五寸ニ六尺板葺 一、佐屋二間半ニ四間萱葺 一、鳥居二宇 一、神橋一ヶ所 一、社地四間×六間 一、造営当村中ニテ 一、藩庁マテ二里』。これによりますとかつては観音堂であり、寛延3年の弘前並在々浦々建立社堂帳面には『原田村観音堂 元禄7年』とあり、宝暦9年の神社上帳には『原田村正観音堂』とあります。
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拝殿向拝神額。
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拝殿内。
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御神馬やネプタも見えました。手間にあるのはオシラサマかな。立派なものです。
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25.5
本殿。
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