弘前市悪戸村元。
一之鳥居紀年銘「昭和12年4月30日、奉納者成田勇作」

社号標「村社常盤神社」(大正9年旧7月17日悪戸村中敬白)

以前の記事:『常盤神社 (弘前市悪戸)』

常盤神社鳥居建立寄進芳名(1999年・平成11年7月17日建立)

三之鳥居。

その手前に鳥居の跡。

参道。

四之鳥居(破損の為の修復工事:粟島利光、粟島銀蔵、町内一同。平成9年5月吉日)
石塔群。

二十三夜塔(梵字はサク(勢至菩薩)、萬延元庚申年8月23日、惡戸・下湯口村中)


庚申塚(梵字はウーン(阿閦如来)、弘化3丙午年5月6日)

庚申塔(安政4丁巳年8月12日)

石仏一基。何かは判別できず。

こちらは読み取れず。

庚申塔(安政6己未年)

庚申塔(萬延元庚申年7月28日)。上記の二十三夜塔のほぼ同じ時期ですね。

願主も刻まれています。

頑張ればもっと読み取れると思います。私は頑張りません。

青面金剛像庚申塔横の案内板。

青面金剛像庚申塔一基(市指定有形文化財、平成5年4月26日指定)…『庚申は、60日に一度巡ってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして健康・長寿を願う信仰である。これを守庚申または庚申待という。守庚申は平安・鎌倉時代、その夜詩歌管弦して眠らぬ一夜を過ごし、庚申待ちは宗教的儀礼の勤行をしてその夜を過ごすことをいい、礼拝本尊によって仏教・神道の神仏が当てられている。石塔は、前記神仏像・文字や庚申等の文字を刻している。津軽においても盛んに信仰され、1300基余の石塔が確認されている。この石塔は、もと目屋街道沿いにあったものを昭和に入りここ常盤神社内に移したものであるが、弘前市内の民間信仰の石塔中最古の紀念名(元禄15年・1702年)を有し、青面金剛の像を刻している。管理者悪戸町会、弘前市教育委員会』
青面金剛像庚申塔。
下部三猿。
紀年銘。

忠勇義烈(皇紀二千六百年記念、高山松堂書)

裏面「支那事變參加者建之」※故陸軍歩兵伍長勲八等・功七級岩﨑定雄、陸軍工兵軍曹勲澤田徳一、仝歩兵軍曹勲等粟嶋岩松、仝歩兵伍長勲等成田幸次郎ほか(以下省略)

参道石段。

五之鳥居。

社殿は参道に対して右に直角に曲がります。正面には別に正面参道、社号標がありますが、地形や社号標の年号等から判断するに新しいものかと思います。
社号標「常盤神社」

側面「悪戸字鳴瀬101番1号より大正14年社殿移転す」

裏面「昭和34年7月17日木村永吉敬白 昭和51年11月25日移転」

社殿前鳥居(常盤神社新鳥居建立、奉献有限会社大湯石材店、平山工務店平山利美、平成24年11月)
江戸期以降の悪戸村について。枝村に下湯口村がありましたが、享保12年に分村。元和年中御家臣姓名大概の83騎には「百石悪戸村喜右衛門」と村名が見えますが、明治初年の県租税誌によりますと古くは下湯口村と称していたといいます。正保高帳で下湯口村として見える村高は、他の史料と合わせると悪戸村を指していたと考えられることから、当村は元和年間以降正保年間頃まで一時的に下湯口村と称していた可能性が高いです。村高は「正保高帳」では下湯口村とあり552石余、「寛文高辻帳」731石余、「貞享4年検地水帳」1,364石余(田800石余・畑屋敷564石余)、「寛保高辻帳」731石余、「天保郷帳」855石余、「旧高旧領」1,098石余。「貞享4年検地水帳」によりますと、小字に「青柳・村もと・うし路沢・あふ記田・中野・成瀬・山吹・芦野」があり、反別は田76町1反余・畑屋敷187町1反余(うち屋敷2町5反余)の計263町6反余、このうち田は上田から下々田まで、畑は上畑から下々畑まで設定。他に青柳館跡1ヶ所・永荒地47町余があり、漆木は1,165本。元禄3年には和徳組に属し村位は上。「国日記」によりますと、元禄15年村内の清水ケ森・岩堤・花田沢に桃木5万2,305本、岩堤沢に栗1,150本と胡桃96本、三倉森・土手森に松670本が植林されています。寛政9年以後蝦夷地警衛を命ぜられた弘前藩は、領内で家臣団の軍事操練を度々実施しましたが、文政3年には当村の南にある大開野(のち宇和野と称す)を操練場としました。大開野は「津軽家御定書」の寛文7年郡奉行・町奉行宛の覚によりますと、湯口野(相馬村湯口)・小沢野(弘前市小沢)とともに鷹待場でした。しかし、安永7年には同所で竹森又吉による井上流砲術の演習、寛政4年には手者頭の練兵が行われており、更に文化7年には書院番・表書院番の両組が、以後同所で毎年春秋一度ずつ備え立ての操練を行うよう仰せ付けられており、操練場としての役割を果たしてきていました。集落は弘前城下から相馬村へ至る街道筋に発達し、文政4年の御郡中道法并駄賃御定帳によりますと、弘前城下から最初の馬乗継地とされ、村内には脇道番所が置かれています。天保11年当村の林兵衛は肥前より来た瀬戸師宇吉を雇い入れて瀬戸坐白焼の製造に成功し、以後当村の焼物は悪戸焼として知られるようになりました。当村で岩木川から取水する二階堰は、駒越組・藤代組・和徳組の各村に利用され、水下反別は74町5反余にのぼります。村内の寺社として「貞享4年検地水帳」によりますと、観音堂・日月堂・熊野堂・妻神社・薬師堂が見えます。また明治初年の「国誌」によりますと常盤神社と招魂神社が見えます。このうち常盤神社は現在字村元にある当常盤神社を指し、御祭神は伊弉那岐命・伊弉那美命、草創などは不祥ですが、御祭神から「貞享4年検地水帳」に見える熊野堂を指すものと思われ、明治初年当時、相殿として下湯口村から遷座した天照皇太神宮と常盤坂村から遷座した塞神を合祀していました。また招魂神社は、明治元年・同2年戊辰戦争で戦死した弘前藩・熊本藩・長州藩などの藩士を同2年に祀ったもので、同6年村社となり、同21年に弘前の上白銀町へ移転。明治初年の「国誌」によりますと、戸数59。村況については野菜類を出荷して生計を補助したと見えます。また支村として本村の北に悪戸派がありますが、戸数は見えず、「派と云とも常磐坂村の免内なり」と記されています。同12年の「共武政表」によりますと、戸数87・人口506(男261・女245)、馬88。物産は米・大豆・粟・蕎麦・小豆・檜材。同12年下湯口村の青柳小学が当地内に校舎を移転新築、同15年青柳小学校、同20年青柳簡易小学校と改称。同22年清水村の大字となっています。
石灯籠一対(明治32年旧6月14日)


御神馬一対(昭和14年5月17日、惡戸村中)


狛犬一対(昭和3年8月17日、氏子中、社掌宇庭定義、総代工藤銀次郎外2名)
手水石(文政三庚辰年六月)

手水舎なのかな。

手水舎というより、水を汲めるような造り。

小祠。中には石。『奉納常盤神社 奉納者成田利衛、氏子総代成田秀雄、石岡福治、成田道雄 昭和56年7月17日』とあります。

『平成3年9月28日早朝津軽一園を襲った台風19号は史上最大と云ふべき風速50米余で一瞬にして地獄に落ちた思いの朝でした。りんごは壊滅的落果倒木の打撃を被り又家屋他建物等の損壊も著しく尚神社境内の倒木に依り石造りの鳥居、神馬等の損傷他境内の被害も甚大なものでした。而し氏子一同は日頃よりの敬神崇祖の念篤く産土大神の御神徳を尊み奉る人達なればそれが修復に一念を燃し平成4年6月末こゝに修復完納せしめ氏子一同の敬神の社とせしむ。平成4年7月17日例祭日。宮司宇庭定憲。町会長岩崎国雄。役員佐藤武弘、仝粟嶋万一、仝工藤義弘、仝工藤武四郎、仝岩崎是兄、仝三浦佳見。役員成田勇、仝松本吉衛、仝蒔苗義一、仝粟嶋精蔵。氏子総代成田道雄、仝粟嶋利光。氏子一同。石工常盤坂成田栄』

社殿。

御祭神は伊弉諾神、伊弉册神。例祭8月17日。境内地491坪、本殿1坪、拝殿12坪。

由緒…『当社創立年月日不詳なるも、元禄十五壬午暦大行院書上宮帳によれば、悪戸村熊野宮権現、同村大日如来堂、同村新山権現宮三社を合祀。明治十二年四月五日、村社に列格される。昭和二十一年三月二十四日法人令により届出、同時に神社本庁に所属する。』

末社。

御神体は石で稲荷宮な雰囲気ですが、棟札には「奉再興新山堂一宇 村中安穏 五穀成就處 別當長光院」とあります。元々は明和7庚寅年6月12日に建立されたものかな。
末社。

こちらは棟札に「奉齋悪戸村出身忠靈紀念堂日夜安全守攸」・「昭和廿二年八月十七日 区長粟島萬次郎、氏子惣代下山松太郎、〃小山内柾吉、宮司宇庭定義」とあります。

末社。

蛇の絵馬などが奉納されています。


末社。十和田大神。御祭神は十和田大神・罔象女命・五帝龍神。昭和26年5月19日幹支吉祥。

末社。

十和田大神村中安全日夜守攸、五穀成就、風雨順應。昭和7年旧4月19日社殿新築勧請小山内作太郎寄進。

こちらにも水が流れています。


いや、湧き出ているのかな。

小祠がありました。棟札は未確認。

消防碑(創立二十五周年記念、松堂書)















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