青森県上北郡六戸町鶴喰日向山。鶴喰集落南方の高台、鶴喰館先端付近に東方を向いて鎮座しております。地元ではこの一帯の山林を「天皇山」とも呼んでいます。

参道には、桂、サワラ、銀杏の古木があり、それを御神体として注連縄が張られています。カツラもサワラも創建時に植えられたものと推定されます。
カツラ(桂)。
大きいです。
サワラと銀杏。
サワラは上部が伐採されていました。よほどの事情があったのでしょう。
銀杏。
鶴喰若宮八幡宮の桂・椹・銀杏(六戸町文化財(天然記念物)指定第8・9・10号。指定年月日平成4年11月30日)…『<由来>この三大木は、約400年前のほぼ同時期に植えられたと言われ、御神木として大切にされている。なぜ三本の木を植えたのかについては、「三位一体を示している」とか、「三種の神器の代わりである」など諸説はあるが、はっきりしたことは分かっていない。言い伝えによれば、カツラは病気の回復や家族の幸福を願う「願掛けの木」、またイチョウは、二つの大きな乳房のようなコブがあることから「女の木」と信じられていたなど、三大木が人々の生活に深く係わっていたこと等がうかがわれる。●桂(かつら)幹回り6.95m、樹高約15m。●椹(さわら)幹回り3.3m、樹高約20m。●銀杏(いちょう)幹回り4.55m、樹高約15m。』

参道鳥居。
鳥居手前にオサゴ場。下記伝説でいうところの御前水(天皇の水)。

霊水がコンコンと湧き出ています…っていうほどではありませんでしたが水が溜まっており、中には御賽銭が見えます。
鳥居。
ちなみに当地域並びに当神社にはある伝説が残されています。所謂「伝説」の域の話ですが参考までに掲載しておきます(六戸町史参照)。長いので興味の無い方はスルーして下さい。写真は参道石段と鳥居。
1.「川下の正直おじいさん」…『その昔、相坂川の川上に意地悪なおじいさんとおばあさんが、そして川下には正直なおじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日、川上のおじいさんと川下のおじいさんは、籠を持って川へ魚をとりに行きました。ところが魚が全然とれなかった川上のおじいさんは、こっそりと川下のおじいさんの籠から魚をとっては知らんぷりをして帰りました。川下のおじいさんはそのことを知っていましたが、魚が全然とれなかった川上のおじいさんがかわいそうに思い何も言いませんでした。しばらくして、川下のおじいさんが、いつものように魚とりをして籠を引き上げてみると、魚の代わりに子犬が一匹入っていました。喜んだ川下のおじいさんは「シロ」と名付けて大切に育てました。子犬だったシロも大きくなり、川下のおじいさんを乗せて柴山峠の山に薪をとりに行くほどに成長。シロが「あっちの山の兎ッコこ~い。こっちの山の兎ッコこ~い。」と吠えると、あっちの山からもこっちの山からもたくさんの兎がピョンピョン跳んできます。川下のおじいさんとおばあさんは兎汁にして食べました。この話を聞いた川上のおじいさんは、嫌がるシロの背中に無理やり乗って山へ行きました。するとシロは「あっちの山のアブ(蜂)ッコこ~い。こっちの山のアブッコこ~い。」と吠えるではありませんか。たちまちアブの群れが飛んできて川上のおじいさんは刺されてしまいました。これを知った川上のおばあさんは怒ってシロを相坂川に沈めて溺れさせて殺し、畑に埋めました。このことからこの一帯を犬が落ちた川(瀬)で「犬落瀬」と呼ぶようになったといいます。川下のおじいさんは悲しみ、シロが埋められた畑に行くと、一本の木が生えていました。川下のおじいさんはそれを切って何気なく振ってみると、米や黄金がザクザクと出てきます。この話を聞いた川上のおじいさんは、自分もまねをしてみようと、川下のおじいさんからその木を借りてきて振ってみると、今度は汚いものがドンドン出てきました。怒った川上のおじいさんはその木を焼いてしまいました。川下のおじいさんはシロの形見としてその灰を貰ってきました。ちょうどその時に鶴喰の辺りで、鶴が空を飛んでいたので、その鶴の群れにむかって「鶴の目に入れ、鶴の目に入れ」と言って灰を投げると、鶴はバタバタと落ちてきました。川下のおじいさんとおばあさんは鶴鍋にして食べました。それ以来この一帯を「鶴喰」と呼ぶようになったといいます。そこで、また、川上のおじいさんは自分も真似をしてみようと、川下のおじいさんからその灰を借りてきて、鶴喰のモクゲンジの大木の枝にのぼって灰をまいてみると、灰が目の中に入り、木の下で見ていた川上のおばあさんの上に落ちてきて二人とも大怪我をしました。それからは、川上のおじいさんとおばあさんは意地悪をしなくなったということです。』
2.「長慶天皇潜幸伝説」…『上北郡六戸町西南部に鶴喰という集落があり、この集落の南方に小高い丘があって、地元の人々はそこを天皇山と呼んでいる。それは南北朝時代に潜辛してきたといわれる長慶天皇にまつわる悲しい伝説に端を発している。長慶天皇とは、皇統第98代、南朝第3代の天皇であるが、実は大正15年に専門家の調査によって即位が明らかにされるまで、その存在は歴史上に登場していなかったのである。また、いつ、どこで亡くなったのかも定かではなく、その辺の不確かさが伝説に真実味を加えている。長慶天皇は弘和3年に南朝最後の天皇となる弟の後亀山天皇に譲位し、その頃は既に弱まっていた。南朝の勢力を挽回するため、秘かに東北地方へやって来たといわれている。そのため、天皇の御陵墓伝説が東北地方には20ヶ所以上もあり、青森県内にもいくつか残されている。県内における長慶天皇の伝説をいくつか訪ねてみると、三戸郡南部町の有末光塚という御陵墓、津軽地方は五所川原市の八幡宮や、中津軽郡の龍田神社と紙漉沢、浪岡町にも有末光塚がある。六戸の天皇山には若宮八幡宮という神社があり、長慶天皇を祭神として祀っている。同神社の古文書によると、「奥州へ潜幸した長慶天皇は、根城南部氏を頼り、南朝の勢力をもり返そうと南部地方へやって来た。しかし、北朝方に知られたため、一旦、津軽地方へ逃れ、また、南部の六戸地方へ戻って来た」というのである。更に、六戸町中央に犬落瀬という地名がある。ここは長慶天皇が六戸郷の里に入った時、1匹の白い犬が里の川(相坂川)で溺死してしまい、天皇はこの犬を哀れみ、「犬落瀬の里」と命名したとも伝えられている。この川の南方に天皇山があり、中腹には三木の御神木(カツラ・ヒノキ・イチョウ)が天高くそびえている。そこに小さな谷間があり、御前水(天皇の水)がわき出ている。山の頂上には若宮八幡宮が鎮座し、天皇はここで村を見おろし余生を送った。古文書によると「天皇崩御の際、7人の家来が殉死し、後の6人が天皇のため若宮八幡宮を建立し、まわりを囲むように館を建て、神社を見守りながら世を去った」という。この末裔が別当の田中家で、故田中長太郎は先祖の伝承を信じ続け、天皇がこの山で亡くなったことを証明するために山を掘ったことがあった。それはこの地下に天皇の廟が隠されており、副葬品や宝物も一緒に埋葬されていることを信じて疑わず、その発掘に執念を燃やしたのである。その天皇山の東の低い山には、天皇の愛馬を葬ったといわれる墓があり、馬の守護神(蒼前様)として信仰され、駒形神社が建立されている。この天皇山の麓には明光山月窓寺が鎮座している。本堂には天皇の位牌が安置され、長慶天皇潜辛をしのばせる。そして、この寺の菩提樹を中心に、烏帽子をかぶり回向する踊り念仏「鶏舞」も、天皇が都から伝えたのだと信じている地元の人もいる。このように、長慶天皇潜幸は信憑性に欠ける部分も多々あるが、同時にこのような数多くの遺跡・説話が残っていることも、全く無視することもできず、これが伝説であり、伝承であるゆえんであろう。』
石段上、拝殿正面。
石段上の狛犬一対。中々個性的な狛犬でございます。
紀年銘は明治29年4月15日。
社殿前の手水石(明治28年8月15日、保土澤政八)。

鶴喰若宮八幡宮。2間4方、切妻入りの社殿。
拝殿向拝、唐破風懸魚、蟇股、木鼻。
蟇股裏面。
施工者鳥越千代志、棟梁川村馨、副棟梁鳥越秀男、彫刻師中村丑之助。有名な彫師です。紀年銘は昭和51年7月吉日。
拝殿向拝神額。

明治29年旧4月15日、當村願主保土澤源次郎敬白。

虹梁。


社殿内には昭和13年の大祭日に奉納した縁起扁額が掛けられています。それによりますと、元々御本尊は金銅大日如来像でしたが、明治初期の神仏分離によって護摩堂に移したといいます。現在は紛失していますが、8世紀の後半、前九年の役・後三年の役で東国武士の信望を集めた八幡太郎源義家が使用していた兜の八幡座に奉置された金銅仏であったと云います。また、この尊像は、5世紀末に在位した雄略天皇の時代のものとも云いますが、紛失しているので確認はできません。本殿の中には御神鏡と4枚の棟札のみが納められ、宝暦5年の多門院文書には「寛明院」の名が、寛政元年の記録では「明学坊」の名が、文化9年2月の神社書上覚では「位楽院」が別当として記されています。現存する4枚の棟札の中で最も古いものは文久元年4月15日の拝殿再建時のものです。この時に導師が龍光院で、折茂今熊神社の別当でもありました。棟札表には「当村地頭普門院」とあり、江戸時代初期より普門院(現八戸櫛引八幡宮)の支配を受けており、鶴喰若宮八幡宮の現社名は櫛引八幡宮から譲り受けたことが推測できます。よって御祭神は応神天皇となります。例大祭は4月15日で、現在この日は今熊保食神社より神職を呼んで祭典を催しますが、秋のお祭りとして8月15日にも催し、この日は自由参拝。鶴喰若宮八幡宮は鶴喰集落のみならず、近辺の村々からも産土様として崇拝されており、棟札にも願主に折茂・柳町の人名も見えます。明治20年の本殿再建の棟札、明治28年に新築した棟札には櫛引八幡宮の社司小笠原長秋の名が見えます。その前年の明治27年に記した建築願の書き付けが残されており、この時福島県宇多郡中村町(現相馬市)の県社中村神社から分霊していることがわかります。中村神社は蒼前様で有名な神社であり、鶴喰の信者たちがわざわざ中村神社に詣でて、特別な計らいで分けてもらいました。明治29年には2間4方の内陣を新築した書き付けも残っています。現在の社殿は昭和51年9月8日改築したものであり、昭和51年7月20日上棟祭執行の棟札があります。
境内石祠。

若嶋観世音と彫られているのかな。

鶴喰若宮八幡宮の隣に鶴喰山神堂があります。鶴喰山神堂については所謂境内神社(摂末社)とは異なるため、別記事にしております。






























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