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弘前市和徳町。旧国道七号線沿い、近世の羽州街道沿い。和徳の名は天文年間には見られます。和徳稲荷神社は為信公に滅ぼされた小山内讃岐の和徳城址の一つに比定。
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一之鳥居は令和2年5月30日に改修されています。
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鳥居修築工事を行い、施工した弘和建設株式会社からの寄付により、新たな鳥居神額(90cm×60cm)が取り付けられました。額と字は真ちゅう製、額内部は銅製。戦時中に失われた神額が76年ぶりに復活したことになります。鳥居は江戸時代のもの。
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社号標「稲荷神社」(大正4年6月10日)
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和徳稲荷神社境内叢林(弘前市保存樹林・第8号・平成3年2月19日)…『イチョウの大木の他、ケヤキ、エゾエノキ、サイカチ、モミジ、サクラ、スギ、イチイ等多種類の樹木が混生して茂り、近隣の緑地として貴重である。』
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神橋。
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7.5
あのコンクリートの枠が不思議。
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神橋を渡り、左手に社司の住宅。社務所は今のイチョウの木のところでしたが、元禄時代に現在地に移転。実は和徳稲荷神社に天授5年(北朝では康暦元年)の南朝の年号をもつ大変珍しい板碑があるとのことで、境内を探したのですが見つからず。どうやらこの社司の宅地内にあるようです。高さ128cm、幅87cm、厚さ21cmの安山岩、阿弥陀三尊の種子を刻みます。天授の「授」の旁と人名はつぶされています。
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手水石(明治8年5月10日)
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「土手町、吉田新吉、山形惣助、蝦名保次郎、黒瀧久吉」
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悠々斎杜歩句碑…「稲の花 草も動かぬ 日なりけり」(昭和43年8月、公羽会建立)
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末社稲荷神社。社号標には「昭和8年12月17日祲轉新7月10日祭禮」とあります。
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薬師社。
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淡島社。
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神額。
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御祭神は少彦名命。
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二之鳥居。
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末社。
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消去法で判断すれば大黒堂かな。違うかも知れませんが。
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大黒堂の草創建立年月不詳。堂社破損等は町中にて再建。享保三丁酉年三月の棟札あり。かつての末社である薬師堂と雷電堂(草創不詳)を合社。
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真裏には猿田彦大神(明治8乙亥年3月23日)の碑があります。
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石灯籠一対(明治4辛未年)
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三之鳥居。
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石灯籠一対(安永9庚子年5月10日)
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25.5
『和徳城がけの汁発祥の地であることを宣言する。平成17年6月9日和徳歴史探偵団』
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御即位記念碑(昭和3年)
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参道を振り返るの図。
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28.5
社殿。昭和初期の建築。拝殿の下には小山内讃岐守の胴体が安置されていると伝えられています。※弘前明治一統誌では「小山内讃岐の首を此地に埋む」とあります。家臣の尾関晴四郎が讃岐の首を稲荷堂地に埋葬して大宮能売命として崇敬。
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御祭神は宇賀之御魂命、猿田彦太神、大宮能売神。旧郷社。
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社殿神額。
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寛文十庚戌年十一月、宝永七年庚寅年九月、享保元丙申年十一月、享保廿乙卯年五月、文政七乙(甲)申年六月、嘉永五壬子年五月の棟札があるようです。
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平安時代に坂上田村麻呂が現在の地に開いた寺が元祖とされます。後に小山内一族の守り神(小山内伊賀再興)であり初代神主は千葉十太夫。津軽一統志によりますと、稲荷宮(現和徳稲荷神社)の創建は不詳、元和年間に2代藩主津軽信枚公が再興して社領三石を寄進、最勝院塔頭の稲荷山徳恩寺を別当としています。また、社領は後に神主毛内十太夫に与えたとあります。稲荷宮と徳恩寺の関係は社領の宛行先が変わった際になくなったものとみられます。津軽俗説選・後々拾遺「扉の鍵自ら飛立つ」には、稲荷宮の鍵は常源寺にあり、稲荷宮に留め置くと常源寺へ飛んで帰るとあります(※「鍵に羽あるかは知らず、不思議なる事なり。白花山常源寺の鎮守稲荷は、和徳の稲荷の本躰なりと」「和徳の社は、元和年中妙公(信枚)再興とあって因縁あれども、仮の神躰を儲けし社也と云へり」)。稲荷宮は為信に滅ぼされた小山内讃岐の和徳城址にも比定。毎年2月の初午には藩より供物が献じられ、また毎年五穀成就の祈祷が命じられました。神主毛内氏は紀伊国の出身であり、慶長年間に稲荷宮を預かり、4代の時に山辺と改姓。正徳3年、社領12石の寄進を受け、合わせて15石となり、領内稲荷の筆頭とされ大社の列に加えられました。信政は明暦3年の江戸大火の時、和徳稲荷と名乗る老人の道案内で小川町の上屋敷から柳原の中屋敷へ避難したことからこれを信仰し、津梁院(東京都)境内に和徳稲荷宮を勧請したといいます(「津軽編覧日記」参照)。また、江戸で大火が起こった際に同神社の大神の化身が当時の藩主を助けたという伝説があり、参勤交代の際は藩主が立ち寄り参拝したといいます(※但し、基本的には五穀成就を祈願する神社で、参勤前の参拝記録としては、正徳3年津軽信寿、安永2年信寧、寛政5年寧親の3例のみ)。
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なお、和徳稲荷神社については「年報市史ひろさき8」にも大変詳しく書かれています。余談になりますが、「年報市史ひろさき8」では和徳町の紹介として次のような文章が見られます。『本市の東端に位置し、丁度への字形をしている。前にはエロ町(北横町)を眺め、後には魔の踏切もあるというグロテスクな町…(中略)大別して商家と手工業者に分かれる。稲荷神社以北は殆ど手工業者で、その以南には商家が並ぶ。このように同一の職業が同じ町に密集しているのも珍しい。(中略)和徳町は、本市経済界の心臓部であり、西北両郡への大動脈なのだ。ところがおかしい事にこの大動脈に上下が無い。和徳通りの久一呉服店の方角の人達は、稲荷神社方面を下和徳といい、反対に稲荷神社側の人達は昔から久一方面を下和徳といっている。(後略)※以下、魚市場について』。ちなみに魔の踏切は昔から自殺の名所として知られ、昭和4年5月14日女学生轢死事件は大きな反響を呼びました。このことについても同書に詳しく書かれています。
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幣殿・本殿。
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昭和20年頃までは境内に狐穴が残されていたそうです。
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稲荷神社正殿の左(南)側に末社の金刀比羅拝殿があります。
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かつての金毘羅堂で草創建立年月不詳。
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堂社破損等は町中にて再建。享和元辛酉年九月、文化八乙酉年十月、弘化三丙午年五月の棟札あり。定例神事は5月11日。金毘羅宮の場所には小山内讃岐の首塚があったとも云われており、金毘羅宮のある讃岐国と懸けて祀られたという伝承も残します。
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記録には御神楽殿(3間×5間)がありますが現在は無いようです。社殿右手のふれあい集会所の場所が神楽殿跡地。
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その横には和徳町児童館、和徳児童遊園があります。
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42.2
42.4
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救火碑(昭和11年、津軽義孝篆額、弥富破摩雄撰文、石倉金庫書、石工成田由太郎)。
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裏面には文政3年からの和徳町代々消防組頭、建碑世話人、現組員、消防手の名を刻みます。城下の町火消は寛政7年頃に始まり、明治18年に弘前公立消防組が組織され、和徳町は二番組でした。
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本殿裏手へ。
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土淵川。
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土淵川稲荷緑地。
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以前は色々と調べた結果、和徳城跡の正確な場所は不明とも記しましたが、改めて参拝して境内を散策すると城跡の雰囲気を感じますね。
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