北秋田市脇神。大館能代空港の近くです。鳥居は昭和54年11月建立(中嶋嘉吉、川口部落奉納)。
脇神についてです。かつては脇上とも書き、小猿部川の中下流域に位置。中心集落は小猿部川と小森川の合流点付近に発達。西方の大野台台地及び台地中央を北流する小勝田川の中下流域も含みます。小猿部川と米代川の間に東方から連なる陣場岱・高森岱の台地や、西方の川口から湯車に至る大野台の台地上に、縄文前期から晩期の遺物包含地7か所、湯車に縄文に続く遺跡があり、小勝田から埋没家屋を発掘。菅江真澄は元慶の乱の際の蝦夷村方上村(三代実録)を分上の誤写かとみて当村地区に比定していますが(秋田の賊地)無理な解釈。なお、地名の由来は未詳。戦国期に見える脇神村ははじめ陸奥国比内郡のうち、浅利氏領。のち秋田氏領となり出羽国秋田郡に所属。天正19年に豊臣秀吉が秋田実季に当地方の当知行を安堵した朱印状写(秋田家文書)では、藤蕪村・谷地中村172石余と記載した中に当村が含まれていたと推定。慶長2年に浅利頼平が豊臣方に上申した「領内村数覚写」では「わき神」はもと80軒の村でしたが、文禄4年浅利・秋田両家勢力の「とりあい」の際、「秋田よりなてきり」のため田畑は荒れ、家数は15軒に減少したと記載。事実なら被害甚大でした。「慶長6年秋田家分限帳」では、藤蕪村27石余・脇神村254石余ともに秋田家蔵入地に指定のうえ代官所支配地となっています。脇神集落の背後及び小勝田集落の西方に中世の城館址があり、浅利家臣に小勝田伝兵衛が知られます。また脇神囲之内・藤株囲之内・堂ケ岱囲之内などの現在に残る小字の地も、村落領主層の屋敷址と関連があるとも推定。
江戸期以降の脇神村は出羽国秋田郡北比内のうち。秋田藩領。元和3年8月20日藩家老梅津憲忠から大館給人羽生縫殿丞に宛て、「わき神の内」の開発を勧めた指紙が現存(大館佐竹文書)。元和5年には大館給人鈴木・小林・山口氏らが当村内に給分を支給されています。大館給人の指導下に開発が進められたらしく、「御判紙写帳」(大館市史)記載の大館給人46氏中、28氏が当村と関わりを持ちます。枝郷は延宝3年新開村という湯車村のほか、藤蕪・堂ケ岱(堂ケ台・堂ケ躰)・川口(小猿部川口)・小勝田(中富小勝田袋)・槐の5か村はいずれも中世末期には小村ながら村名が成立。給分指定の際、脇神村本郷と枝郷が別個に記載されています。「正保国絵図」「元禄7郡絵図」ではともに枝郷を網羅して319石余と図示。伝承では小猿部川と小森川の合流地点西方の上記絵図に郷形図示の地域が往昔に対島某の脇神村開村の地といい、のち和泉某が小猿部川上流部からの堰用水開削に成功し対岸部の開田進展につれ、枝郷田ノ尻村に移転し現在に継続する集落地となったといいます。「享保黒印高帳」では村高812石余・当高665石余(うち本田337・本田並123・新田205)、「寛政村附帳」では当高696石余(うち蔵分267・給分429)と認定。戸数は「享保郡邑記」で106軒(うち枝郷分79)、「秋田風土記」で86軒。「羽陰温故誌」では86軒・440人・馬85頭。小猿部7か村中最大の石高を有する村ですが、親郷七日市村の寄郷としてその差配を受け、羽州街道小繋村内の丁場整備などを分担。村肝煎に花田吉兵衛家があります。村鎮守八幡社のほか、神明社・山神社・水神社・観音堂・相染堂を祀ります。また、曹洞宗脇神山天昌寺(大館町宗福寺末寺)及び修験大行院があります。文政年間の郡方吟味役小川氏と郡奉行蓮沼氏は当地方の振興をはかり、阿仁街道を直線に整備し、街道脇に桑の並木まで植樹し養蚕を勧めました。また、川口村近辺に両氏の1字をもって命名した川戸沼村を開村したと伝えられます。「天保郷帳」は665石余。明治11年北秋田郡に所属。同17年七日市村を戸長役場とする3か村と連合。同22年北秋田郡沢口村の大字。
拝殿内、本殿。なお、当神社の由緒等については調べておりません。Googleの口コミには「与五左衛門家が移住の時、氏神として持参したのが今の川口神明社である。中に安置してある神殿は文化10年(1813)に造られたものである。」とありました。口コミなので真偽のほどは定かではありません。
石塔群。
太平山(明治42年7月)
その他読み取れず。
大館能代空港。
白神山地母神像。
製作:田代町松田芳雄、庭園設計:斉藤造園、建立:秋田県、平成10年7月18日。
空港内。
能代七夕、天空の不夜城「愛李」(全高24.1m)※実物はこの約5倍の高さ
大館能代空港って道の駅なんですね!
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