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弘前市高杉尾上山。
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「故江戸相模白瀧岩五郎之碑」(大正4年旧7月15日建立)。
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側面。
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台座。
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高杉は岩木山麓の東端、岩木川支流の大峰川左岸に位置。大字中別所にある板碑群中の正応元年銘のものに「高椙」の地名があり、元応3年銘のものに「高椙郷主」とあることから、当地は鎌倉期から開かれていたと考えられます。縄文時代の遺跡として字尾上山に尾上山遺跡があり、集落の西北には中世の高杉館(天崎城)跡があります。集落の中央にある浄土宗南貞院は津軽三十三観音の第4番札所で、境内には正和元年銘の板碑があります。また集落の西、八重森は現在弘前市にある長徳寺があった場所で、板碑が3基あります。
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戦国期は鼻和郡のうち。天文年間の津軽郡中名字に鼻和郡のうちとして「高杉」と見えます(津軽一統志)。江戸期以降の高杉村は津軽郡鼻和庄のうち。弘前藩領。元和年中御家臣姓名大概の83騎のなかに「百石 高杉村掃部」とあり、また寛永17年の津軽百助宛の3代藩主津軽信義黒印知行宛行状にも当村名が見えます。寛文5年には藩の御蔵が建設されており、以後高杉組の中心をなす村となりました。貞享4年検地水帳によりますと、小字に「阿部野・尾上山・五反田・岡田・小幡・神原・長谷野・山下」があり、反別は田120町6反余・畑屋敷45町2反余(うち屋敷4町2反余)の計165町8反余。このうち田は上田から下々田まで、畑は上畑から下々畑まで設定。元禄3年には高杉組に属し村位は中。当村は大道筋の西浜街道沿いに集落が発達し交通の要地でした。慶安2年道筋帳によりますと、十腰内村から当村までは3里、当村から弘前城までは1里半とあり、弘前城下のすぐ次の宿継場となっていました。また、脇道として三世寺村から当村を抜け八幡村へ至る道筋もありました。江戸末期の御道書明細によりますと、戸数134・人口629(男313・女316)、駒153とあり、藩の御蔵2、他に組の郷蔵も設置されていました。村内の寺社としては、正徳元年寺社領分限帳によりますと、相模太夫預りの観音堂と諏訪明神宮がありました。このうち観音堂は現在宇山下にある南貞院の観音堂を指すものと思われ、聖観音を祀ります。諏訪明神宮は昔天崎にあり、高杉氏によって祀られたとあり、御祭神は建御名方命・応神天皇・神功皇后・武内宿禰。明治初年の国誌によりますと、明治5年に加茂神社に遷したとあります。また現在字山下にある加茂神社は別雷命・神日本磐余彦命を御祭神とし、社伝によりますと坂上田村麻呂の子花輪丸が大同2年(延暦13年とも)深浦に上陸し、長者森に陣を張り蝦夷平定を行った際、この地を花輪郡(のち鼻和郡)と名付け、のち郷民が国家守護のため聖観音を祀ったといいます。同社は明治6年村社に列しました。
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身代地蔵尊(昭和47年旧6月24日。弘前市高杉字住吉、小野トスヱ敬白)
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久々にこのモンスターを見たくなったのです。
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相も変わらず凄い迫力でございます。
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庚申塔(昭和27年旧9月23日)
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庚申塔(大正9年3月14日村中)
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庚申塔(弘化2乙巳年7月朔日住吉村講中)
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庚申塔(弘化3丙午年8月7日講中)
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庚申塔(安政2乙卯年6月29日)
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庚申塔(安政6己未年6月11日村中)
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猿田彦大神(慶應4戊辰年3月12日講中)
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庚申塔(天保3壬辰年7月16日村中)
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庚申塔(文政5壬午年8月15日村中)
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こちらは読み取れず。
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二十三夜塚(明治33年旧8月23日)
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庚申塔(昭和55年8月15日町会一同建之)
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