十和田湖マリンブルーでアップルパイをテイクアウトして、JRハウス十和田でエビ天そばを食べ、気合いを入れてから五戸町の少彦名神社(手倉橋の薬師堂)へ。


手倉橋は三戸と西越の合流点であり、浅水通りの表玄関にあたります。この部落は五戸地方においても特に神信仰の強いところであるといわれています。幣川(=野沢川=現在の浅水川)の中間にあり、浅水川流域でも早くに開けた場所とのこと。少彦名神社への行き方が分からなかったため、とりあえず「奥の院は高山の隧道上」との情報をもとに、県道233号浅水南部線の手倉橋隧道(手倉橋トンネル)付近から西方へと歩いて行くことにしました。ちなみにトンネルの入口付近(写真の反対側)には三戸町の県議田島三太郎が完成を祝って建立した手倉橋隧道竣工記念碑「南無妙法蓮華経」(高さ155cm、幅75cm、厚さ20cm)があります。祈願者県会議員・参事会員田島三太郎、手倉橋隧道竣工式当日建之、大正15年11月15日を刻みます。碑の下部には土木課長掛札季蔵、第四区長船木基之助、工事請負者穂積逓吉、倉蔵等の名を刻みます。田島三太郎は北村庄次郎三男で、医師田島祐博の妹正子と養子縁組、明治末期、大正、昭和初期にかけて町議、郡会議員、県議会員として地方政界に貢献。実業は青果物商及び糸商を営み、地方物産の改良に努めました。義父は弘前医学校を出て十和田鉱山勤務、27年三戸で開業、町議、県議を勤めた名士。田島三太郎はこのトンネル工事の改修に努めた代表的な人物として伝えられています。トンネルは明治18年から40年間かかって凶作救済事業として着手されました。なお、トンネルができる以前にも縦穴(古い炭坑形式の隧道に変わり、その後現在のような隧道になりました)があったといいます。山中の暗くて古いトンネルであり、入口の石碑には「南無妙法蓮華経」、近くには神社・・・ってことで、現代ではテレビでも放送されるほどの心霊スポット「幽霊トンネル」として有名になってしまいました。私の意見ですか?そうですね。とても便利なトンネルです。強いて言えば、夜に人がいるのを見かけたら幽霊と思ってしまうほどの雰囲気はあります・・・っていうか、夜にここで幽霊に会うよりも、生身の人間が会った方が何倍も怖いです。
入口付近には「作業中・立入禁止」という幟がありました。作業中というのは林業における伐採作業でした。

車1台は通れそうな道でしたが、すれ違うのは困難なためあまりおすすめはしません。



歩くこと10~15分くらいでしょうか。鳥居が正面に見えてきます。中々大変な場所にありますが、村人の参拝者は多いといいます。毎年4月8日には老若男女で賑わうそうです。

神社前はやや広くなっており…

見渡すと他にも道が2~3通りあったので、違う経路もあるのかも知れませんが未確認です。どれが「あめや坂」なのかはわかりませんでした。※戸賀沢松太郎の先祖が部落のはずれに住んで飴屋をしていたことに由来。その後、戸賀沢松太郎は昭和初期に北海道に渡道し、その後戸賀沢良治がその土地に住んでいたといいます。「流れる五戸川」によりますと『手倉橋の左側の嶺に陸羽街道、部落の南側には薬師様に行く山道が今も残っている。その中間を通り抜ける道路が、「あめや坂」と呼んだ坂である。(中略)坂の名称を部落の古老戸賀沢友八さん(87歳)は死亡の直前次のように語る。「昔の年寄りから聞いた話である。戸賀沢松太郎の先祖が、部落のはずれに住み、飴屋をしていた。明治・大正にはお菓子の代りに、麦やモミのもやしで作る飴が好物だった。この飴を作った所から屋号がつき、明治に道路の名になったらしい-といわれている。薬師様の坂道を登らず、随道を越えると、南部町の領分になっている。国道以前は、台形のような丸太が百二十メートルぐらい組まれていた。冬になると、ツララが出来、危険なトンネルだった。古い炭坑形式の随道に変わり、今のようになったのは六十年前である。」(中略)そのあめや坂もすっかり変わって、さびしい山道になっている。堂ヶ前、荷軽井、手倉橋の人々は三戸方面に買い物などで出かけることが多かったという。(中略)あめや坂は長さ二千五百メートル、曲折の多いこと、急な坂、谷間にはさまれた道、そして嶺の頂点二百四十メートルに峯薬師堂がある。(後略)』

住所は青森県三戸郡五戸町手倉橋薬師沢53。
山の中という感じですが、神社周辺は綺麗に整備されております。
鳥居。
案内板「少彦名神社」の内容は神社庁の内容とまったく同じものでした。

神社庁より…『旧村社。御祭神大那牟遅大神、少彦名大神。例祭日旧4月8日。境内地432坪、本殿0.7坪、拝殿20坪。古来内野に鎮座せしものを、中世の頃、馬渕川を眺望する霊地に動座致したき旨の神託を奉じ、今の薬師山に遷座せしものなりと伝えられる。病気平癒・病難退除の守護神として信仰深きものがある。』※例祭日は新暦5月8日。
石灯籠一対(諏訪内良陳、文化13年丙子12月8日)


狛犬一対(元治元年甲子7月)
個性的です。
石工(玉掛村)は微妙に読み取れず。

石灯籠一対(明治28年乙未4月8日、願主三戸八日町矢幅三次郎)
石灯籠一対(明治20亥年4月8日)
「奉納」と彫られている石塔。たぶん石灯籠かと思いますが判断できず。紀年銘は文化3年。


手水石。

壊れています。文字は微妙に読み取れず。

参道を振り返るの図。
社殿は参道に対して右側にあります。

峯の台地に50坪位の社殿。
昔の書には12坪のカヤブキ堂と記録されていますが現在は違います。


拝殿向拝蟇股・木鼻等。





昔は奥の院、峯薬師様とも呼ばれていたそうです。

向拝神額「峯薬師」

拝殿から見た参道鳥居。
幣殿・本殿覆屋。

拝殿(堂宇)内。御本尊は薬師如来像。古老が語る峯薬師堂縁起…『今から凡そ800年前、京都出身の太田六文(当時25才)が、ある神社から薬師如来の像を盗み出し江戸へ出て暮らしていたが、当時は江戸が何かとやかましく、そして生計が苦しくなったので江戸をのがれて仙台、そして3年の月日を送ったが、更に北を目指して盛岡、北へと下って35才の頃三戸に辿り着き、正寿寺部落に住んだ。そして、薬師の峯に目をつけ、妻と共にこの峯に通ったが、ある時、峯に通う登り坂で一休みをしてうたた寝した時、薬師の御神体が六文から抜け出して「六文よ、神の住む場所はこの峯にある。お前も一緒にこの峯に住むべし」といって曼陀の大木にとまったと感じた時に目が覚めた。六文はこれを霊感と信じ、この峯に落ちつき、妻と共に生計を営んだ。その後六文が年老いて71才の時、子ども3人と親子が手倉橋に下り、村の人々と手を握り、生活を共にして平和な部落を築いたという。現在の薬師堂は凡そ130年前に建立されたもので、その前は幾度か山火事で焼けている。この山火事は六文の子孫に恨みを持っている者が、春の風に放火したことによるものだという。六文は山伏姿でこの土地を訪れ、近年死亡した太田忠二まで46代続き、代々薬師堂の別当をつとめ、家号を別当さまと呼んだ。また、邸内には薬師の御神体が未公開に保存され、部落民もこの秘仏を見たことがない。』

左右の仁王像がインパクト大!
身体中貼り紙がされています。
参詣者が自身の体の悪い箇所を紙で撫でて、その紙を濡らした後、仁王様の同じ部位をめがけて投げつけ、紙が当たるとその箇所が良くなるという風習かと思います。一部の地域に残されている風習でたまに見かけますね。
紙には名前が書かれています。
本殿前の神額「少彦名神社」

薄れていてその他は読み取れず。

その横の新しい感じの神額「少彦名神社」は昭和8年4月8日、願主門前佐々木新治敬白。

こちらの「少彦名神社」「薬師如耒」も詳細はわからず。高い場所にある上に拝殿内も結構暗かったので。


絵馬。

絵馬(三戸小向村鍛冶清吉)

絵馬の横に天狗(猿田彦)


外に出まして…

伊勢参拝紀念碑(約2.5m×45cm)「伊勢参拝記念 昭和五庚午年五月六日(旧四月八日)建之 手倉橋伊勢講社員」太田長太郎、太田寅吉、太田倉之亟、戸賀沢由松、小笠原佐兵衛、太田宗之松、太田小助、武田喜和太郎、太田喜代治作、太田与助、太田久治、寺沢市五郎、小笠原栄三郎、寺沢和七、小笠原栄治郎、寺沢福太郎、戸賀沢貞治、高山倉吉

























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