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弘前市常盤坂。真言宗智山派。成田山弘前寺(こうぜんじ)。津軽弘法大師霊場第五番礼所。御本尊は成田山不動明王。脇仏弘法大師、浪切不動。寺宝として不動明王の掛軸(江戸時代作)があります。
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「成田山」と刻まれた石碑の裏面。昭和29年10月28日建立。移転直後のものですね。
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由緒…『千葉県成田市にある大本山成田山新勝寺の末寺にあたり、昭和二十三年の開山で、ご本尊不動明王像はご分霊で、貫首大僧正荒木照定猊下ご親修のもとに、開眼大法要を行う。昭和二十八年に現在地常盤坂に遷座した。現在の場所は、津軽藩三代藩主信義公が屋形を建て、茶飲み場所にした所といわれている。また、その眺めが素晴らしく「唐にもない眺め」だというので、唐無坂ともお茶山とも言われる有名地で、境内には信義公歌碑が建立されている。また年に一回行なう初不動の御幣護摩、釜鳴りはその年の吉凶を占うとともに世界平和、万民和楽を願う行事として知られている。』
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石灯籠一対。
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6.5
津軽藩三代藩主信義が屋形を建てて茶飲み場所にしたところと伝え、境内には信義がこの場所で詠んだという「白妙の雲かと見れば陸奥(みちのく)の岩木の嶽に雪はふりつゝ 信義」という歌碑が建立されています。※梵字は不動明王
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裏面成田山移轉記念…『昭和二十八年十月二十七日不思議ノ因縁ニヨリ成田山弘前寺此ノ地ニ遷ル當寺ハ大本山下総國成田山新勝寺ノ末寺トシテ昭和二十三年六月二十八日弘前市桶屋町ニ草創大僧正荒木照定猊下親修本尊不動明王鎮座シ奉ル所日ナラズシテ今此ノ風光明媚ノ霊地ニ導カル此ノ地往古以来人■ヲ鍾メ領主信義公亭ヲ設ケ寧親公又荘ヲ営ム世人亦一瓢ヲ携ヘテ行樂ノ所トナス然リト雖モ時移リ世変リ未タ常盤山ノ名ニ應ハシキモノナク唯老松此ノ地ヲ守ルノミ然ル所今ヤ金剛不壊佛法守護ノ不動明王ヲ迎ヘ奉ル嗟霊験ナル哉常盤ノ名ニ應ハシキ哉コノ喜悦豈開山智弘並ニ信徒ノモノナランヤ有縁無縁三界ノ萬霊ト共ニコノ喜ヲ須タン茲ニ記念シテコノ歌碑ヲ建ツ 昭和二十八年十一月二十八日 成田山弘前寺第一世法印智弘撰 八十六翁松堂書 賀田今卯吉郎刻』※自信なし
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八大龍神。
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9.5
新勝寺の末寺は県内では弘前寺と青森市の青森寺が直属。弘前寺は初め新勝寺の流れをくむ結社として始まり、昭和22年9月に小泉智弘住職(開山・一世。昭和11年3月得度。俗人から山伏となり一代で寺を建立)が寺格を得ました。昭和24年に新勝寺の荒木照定猊下(げいか)が弘前に来た際、地名に因んで寺名を弘前寺とし、山号は大本山である成田山をそのまま頂きました。最初は最勝院の下に位置する桶屋町に本堂を建立するも、信徒が増えるにつれて狭くなったため、昭和28年に現在地に移転したそうです。※小泉智弘住職が信仰への道に足を踏み入れたのは18歳頃。昼は津軽塗職人をしたり、映画館に勤務して家族を養い、夜の信仰を続けたといいます。相馬村の溝江貞善覚應院九代住職の弟子となり、山伏になるために青春のすべてをすさまじい苦行に燃焼させ、その結果、神秘的な宗教体験を重ねて火生三昧を克服。特に小泉住職は荒行の名人的な存在で知られ、火渡りは素足だったといいます。なお、後継ぎであった長男の照智さんが昭和52年に41歳という若さで亡くなり、四男一女でありましたが他に次ぐ者は無く、小泉和尚の長女妙光さんの婿である寺口照弘師が本山で修行の後に継いでおります(小泉住職は平成2年11月3日に80歳で遷化)。
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御詠歌「ほのぼのと香る茶山の常盤坂かわらぬ誓いあなありがたや」
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狛犬一対(昭和47年10月28日青森市沖舘千刈、橋本亮三建立、開山智弘代)
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12.5
倶利伽羅剣。
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滝不動明王。
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14.5
子安弘法大師像。
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子安地蔵像。
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こちらの小祠は何かわからず。
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その隣は聖観音像かな。
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18.5
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