1
常盤坂…「津軽を統一し、津軽藩政の基礎を築いた初代藩主為信は、元亀四年(1573)袋の宮と呼ばれたこの地域に小さな「祠」を奉建します。そこにある坂が弘前城築城後から「唐内坂(からないさか)」と呼ばれていたと伝えられます。「唐内坂」とは”中国(唐)にも無いほどの景勝の地”の意味だそうです。五代藩主信寿と九代藩主寧親がこの地域に別荘を建て、いこいの場として時を過ごしたことを思うと、当時から景勝の地として”唐にも無い”という俗説もうなずけます。現在の坂名「常盤坂」は文化七年(1810)八月に九代藩主寧親が改めたもので”末永く栄えるように”との意味だそうです。その後、大正時代に傾斜を緩める改修工事が実施されるなど、藩政時代からの面影を失いつつあるようですが、付近の人々は現在も「唐無(内)坂」と呼び、市民にも親しまれています。昭和六十一年三月弘前市教育委員会」
2
江戸期以降の常盤坂村についてです。津軽郡平賀庄のち。はじめ唐内坂村と称しました。「津軽歴代記類」によりますと、文化7年に村内の唐内坂を常盤坂と改めるよう藩の指示が出されており、恐らくこの前後に村名も常盤坂と改称されたものと考えられます。元は和徳村の枝村で、享保11年に分村(村名改称并新村創立調)。弘前藩領。村高は貞享4年検地水帳によりますと、和徳村の枝村唐内坂村として村名が見え3石余(畑1石余・屋敷2石余)、天保郷帳4石余、旧高旧領9石余。集落は弘前城下から相馬村へ至る街道沿いに発達。村名のもとになった唐内坂については「慶安2年道筋帳」に小道の1つとして弘前より相馬村を経て藍内村までの道筋があり、その中に「唐内坂下り五拾間道広四間、牛馬自由」と見えます。元禄3年には唐内坂村は和徳組に属し村位は中。村内から岩木山を望む景色が極めて良好なため、享保11年に5代藩主津軽信寿が茶屋を建て、また享和3年には9代寧親も茶屋を建てたといいます。しかしながらこれらの建物は11代順承が諸事節倹の方針により幕末に廃止。村内の寺社として、明治初年の国誌によりますと、当村の塞神が悪戸村の常盤神社の相殿として祀られており、御祭神は久名斗大神・八衢比古命・八衢比売命。明治4年弘前県を経て青森県所属。同11年中津軽郡に属します。明治初年の戸数33。同12年の共武政表によりますと戸数22・人口125(男58・女67)、馬9、物産は大豆・粟・蕎麦・小豆。同22年清水村の大字となっています。
3
五代藩主信寿別荘(唐内坂の御殿・茶屋)については以前から何度も触れておきながら放置しておりました。住所としては弘前市常盤坂3丁目及び悪戸鳴瀬になります。弘前寺の建っている付近が津軽藩三代藩主信義公が屋形を建て、茶飲み場所にした所といわれており、その眺めは「唐(中国)にもない眺め」という素晴らしさから唐無坂ともお茶山ともいわれました。今では通常常盤坂で呼ばれていますが、昔の人たちは唐内坂と呼びます。弘前公園が解放される以前は児童の遠足などで大変賑い、市民の憩いの場にもなっていた場所です。
4
ってことで何度も紹介しているこちらの地図を参考に付近を歩いてみました。成田山弘前寺の敷地以外の場所、桝形から向かって二の丸・一の丸の跡地を探索します。
5
結論から言いますと、ほぼリンゴ畑です。
6
6.5
何か痕跡はないかと探してみましたが、リンゴ畑なので自由が利きませんでした。
7
7.5
自由に出入りできれば何かあるかも知れませんが、許可の取りようもありませんでした。あとは専門家におまかせしましょう。
8
池(ジュンサイ池)と井戸の痕跡ならわかるかと思ったんですけどね。
9
それでも昔から岩木山を望む絶景の地であったことだけは理解できました。
10
関連記事
11
 にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ