青森県黒石市市ノ町。新坂に面しています。御祭神は津軽十郎左衛門信英霊。例祭7月22日。黒石藩祖信英を追慕する士民たちの神祭願が青森県令から認可され、明治12年11月4日に郷社となり、同15年6月13日県社に昇格。
鳥居。鳥居の向こうは守札授与所・宮司宅。

鳥居神額。

社号標(明治37稔6月22日、南津軽郡中郷村大字飛内、高木仁左衛門。仝郡田舎舘村大字八反田、阿保彦太郎)

由緒板(黒石神社崇敬会建立、開藩三百二十年記念、昭和51年7月22日)…『◆創建…寛文二年(1662)創廟明治十二年郷社として社殿建立、同十五年県社に昇格◆祭神…津軽黒石藩祖、津軽十郎左衛門信英神霊◆祭典…大祭(7月21、22日)、元旦祭(1月1日)、祈年祭(4月22日)、新嘗祭(11月22日)◆由緒…黒石藩祖津軽十郎左衛門信英公は宗藩弘前二代藩主信枚公の次男で藩祖為信公の孫に当り、元和六年(1621)江戸に生る。生母は満天姫と称し徳川家康の養女である。初め幕臣として江戸書院番駿府在番等を勤める。明暦二年(1656)名君とうたわれた弘前四代藩主信政公が幼少のため信英公は幕命によりその後見職となり弘前城に於ても諸政を司どった。同年八月公は信政公より黒石平内外五千石を分知され黒石藩の基を築いた。降って文化六年(1809)一万石に増封され大名に列せられた公は文武にすぐれ特に当代第一流の軍学者山鹿素行の高弟としてその学識と執政は諸大名の間にも高く評価された。寛文一年(1662)九月二十二日弘前城にて長逝享年四十三。◆建築物…本殿拝殿社門などを備え特に社門は藩制時代廟門といわれ黒石陣屋の大手門近くにあったのを移築したものである。◆宝物…御神刀金梨子地牡丹紋散蒔絵衛府太刀拵(県重要文化財)その他◆その他…信隣公廟(二代藩主信敏公の三男で黒石保福寺の開基)、鳳輩攸之駐碑、芭蕉句碑、五訓の森碑』

黒石神社神門(平成20年5月8日市有形文化財)。切妻造(薬医門形式)、一間一戸、鉄板葺、両袖(左右共三間)片側延長4.25m。この門は藩政時代陣屋にあったものを明治12年に移築したものです。扉および蹴放はありませんが、黒石神社に神門の一部と思われる扉2枚が保存されているそうです。神門の柱上部の冠木には、扉軸を繋ぐための「ほぞ」が見られることから、建築当初は扉・蹴放があり、移築時にそれらを外したと考えられています。神門左手に社務所と宝物庫。社務所は明治期からの建物で高床式。床下には祭典に必要な道具を収納。昭和53年に増改築。宝物庫は昭和55年新築で御神刀他を収納。
狛犬一対(黒石藩祖二百五十年祭典紀念、明治44年7月22日)
社殿正面。
石灯籠一対(平成14年10月27日(旧暦9月22日))。


御神忌340年祭を記念し、黒石津軽家十五代当主津軽承公氏奉納。

社殿側から見た神門。
春日灯籠一対(平成14年10月27日(旧暦9月22日))。御神忌340年祭を記念し、黒石市大舘信昭、北山秀美が石柱けやき造り銅板葺(電設)の春日灯籠一対を奉納。


手水舎。

手水石。
明治12年11月15日奉納の手水石を利用して、昭和61年10月26日に黒石神社崇敬会奉納により水道を引き、たたきを打って屋根をかけました。
明治天皇御駐輦聖跡碑。明治14年行幸記念碑です。明治天皇は明治14年北海道御巡幸環御の節、9月9日青森から浪岡を通り黒石にて御休息。黒石神社神楽殿脇に小屋を設置して、津軽神楽(宝剣・磯浪・千歳・弓立)を天覧遊ばされました。

昭和43年12月、明治百年を記念して、青森県知事竹内俊吉揮毫による聖跡碑(木製)を鳥居付近に建立。

平成11年7月22日に青森市野尻字野田の館山賢一氏が風化著しい様を憂慮して、題字はそのままに石柱に刻んで再建奉納。

手水舎。

御洗水石。
信英公は寛文2年6月16日に江戸から黒石に到着し、18日に弘前へ向かいます。7月3日に平内を巡見、27日に黒石で風邪にかかり、この後に弘前へ移ったと考えられます。8月21日には弘前藩が病気平癒の祈祷を最勝院など真言五山、猿賀神宮寺へ命じています。病が重くなると9月1、4、6日に江戸藩邸へ飛脚を出しています。これは信政公と信英公の長子信敏へ知らせるためと思われます。同21日子の刻に没しました。23日には遺命により遺体を黒石へ移し、儒道による葬儀が行われ、陣屋の東(黒石神社)に埋葬。祭日には廟内に僧尼を入れず、濃茶・薄茶を献じてから大学を読誦し、家臣一同が聴聞。曹洞宗長勝寺・隣松寺にも位牌を安置して法号を直指院殿一鑑了無大居士とし、天台宗津梁院の法号は常光院殿素月円心大居士としました。同4年1月23日に弘前藩大道寺宇左衛門が信政公に代って代参、銀子一枚を献じ、3月7日には信政公自ら参拝。同6年1月22日に信政公は弟信章を伴って参拝。同7年には江戸にあって渡辺次太夫が参拝。同12年9月22日に信政公参拝。延宝2年には大雷雨にもかかわらず信政公参拝。信政公は、信英公の十三回忌に当たる延宝2年9月22日に、弟外記を伴い、朝六つときに弘前城を出て、猿賀村弥左衛門の宿舎で装束・長袴に直され、黒石陣屋の大手門で行列の大鳥毛の鑓を止め、町会所前で十文字の鑓を止めています。ここで駕籠を降りて御廟所へ通じる「かこい之口」から入って廟参。この時に信敏の寄進した石灯籠と家臣が寄進した手水石、釣灯籠が現存。延宝6年9月22日には溝江半右衛門代参。また、宝暦11年の百回忌には、弘前藩寄合傍嶋九郎左衛門が使者となり拝礼、医者益田道伯が台子点前で濃茶・薄茶を献じています。この時、五代著高公が寄進した石灯籠が現存。なお、御廟所には御廟番人が一人任命されて管理にあたりました。拝礼には大刀は門外に置いて小刀だけを帯び、素足になり、雨天の際でも雨傘はさしませんでした。廟所はかつて南面して建てられていたため、かよい之口から進むとUターンする形で廟参。なお、神社東側にある二代信敏公の三男信隣の廟所は、現在でもかつての信英公の廟所に倣って南面して建立されており、崖を背にして拝礼する形です。
明治維新、黒石藩も版籍奉還によって祖廟の地も旧士族に払い下げとなりました。藩祖と仰ぐ信英公の遺徳を深く追慕する黒石町の平民有志総代加藤成之助・松井九兵衛・乗田長吉郎、士族有志総代鈴木元綽、士族隠居唐牛素岳・吉村澹叟、黒石領の飛地平内村23ヶ村の平民有志総代小形藤兵衛・竹内與右衛門・同士族有志総代逢坂良太、黒石村のほか21ヶ村の平民有志総代熊沢亀次郎・高木久蔵・横山佐助等が、その霊を神として祀るべく、明治12年3月に青森県令山田秀典い神祭願を提出。神社創設にあたって本殿・幣殿・拝殿とそれに通じる参道・鳥居の形態を整える必要がありましたが、御廟の南面は崖であったため建設的に無理があり、やむなく御神座だけはそのままに、御廟の建物を西面向きに変えて神社としての形態を整えたものと推測されています。
幣殿拝殿。入母屋造、桁行三間、梁間三間、鉄板葺。
拝殿向拝神額。

本殿。入母屋造、桁行三間、梁間三間、唐破風造向拝一間、鉄板葺、石垣(高さ1.5m)、四方高塀。
御廟(御本殿内陣)の中には津軽信敏建立の石碑(市有形文化財・平成17年3月14日)があります。父信英の死後1年目にあたる寛文3年に、信英の墓として建立。また、藩祖信英公頌徳碑(正徳元年9月22日、市有形文化財・平成17年3月14日)も御廟(御本殿内陣)の中にあります。黒石三代領主津軽政兕(まさとら)公が初代領主信英公の五十回忌にあたる正徳元年に建立したもので、信英公の遺徳が刻まれています。御本殿内陣に安置されているので碑文だけ紹介しておきます。『故十郎左衛門津軽信英者鎌足公之裔孫而奕世縄武至津軽右京亮藤原為信為之中興祖始信英産武州江戸才気勇偉長五尺八寸自幼講武学文兵法者師甲州生田十太夫山鹿甚五左衛門剣術者祖一刀流従習梶新右衛門学鎗則師山本加兵衛弓馬亦然慕吉田流達八条家文学者師洛陽清水執行懇遇小見山玄益中村源助及丹州大生山別当常昌寺以講論討習且為中院道村卿門下咏和歌有其余力則游戯之諸芸亦莫悉学為其人也温良慈仁親臣撫民制度安寧家兄土佐守津軽信義棄世之時請命分奥州津軽領内与采邑五千石於信英仕 厳有大君亡兄之嗣子津軽平蔵幼為庇蔭有 台命為之輔故執政伝 命従其年交代江戸寛文二年壬寅九月二十二日罹病而逝歳已四十三葬津軽黒石謚称 常光院素月円心藤原府君嗚呼哀乎物換星移奄忽蕭然今歳正当五十年忌辰孝孫采女津軽信全建碑勒銘使記大略以為後鑑云爾 正徳元年辛卯九月二十二日黒石領主津軽采女藤原信全立武陵後学 人見又兵衛尉小野行充』

石灯籠二対(黒石市有形文化財・平成12年12月6日)。二対とも拝殿と幣殿の間にあります。幣殿から見て手前が五代著高公奉納、奥が二代信敏公奉納。

二代津軽信敏公建立の石灯籠一対(高さ190cm。父信英公の十三回忌法要に建立。「延宝二年九月二十二日黒石墓石燈籠両基」と刻銘)
五代津軽著高公建立の石灯籠一対(高さ150cm。信英公の百回忌法要に建立。「宝暦十一年九月二十二日」と刻銘)
黒石神社境内にある文化財…『◆県重宝○金梨子地牡丹紋散蒔絵衛府太刀拵…黒石第十一代藩主津軽承叙が、藩祖信英を祀る黒石神社に奉納した御神刀。鞘全体は、金梨子地としており、高蒔絵で五葉の牡丹紋を散らしている。柄は鮫皮に金の俵鋲を、柄頭の甲金の紋章は六箇所に金・銀四分一の合金を象眼。◆黒石市文化財○藩祖信英公書状(二)…明暦二年(1656)に江戸神田邸に住んでいた信英が、弘前藩家老津軽百助に宛てた親書。○御神刀太刀…金梨子地牡丹紋散蒔絵衛府太刀拵に納められている太刀である。古備前の特徴がよく表れている刀身で、作者は正恒。鎌倉時代中期から後期の作品。○釣燈籠二基…江戸時代中期の透六角釣燈籠である。火袋は、六面体の柱状をなしており、透彫状の唐草文が施されている。信英の十三回忌にあたる延宝二年(1674)に家臣の益子彦右衛門と長澤角兵衛が奉納。○石燈籠二対…この石燈籠は、二代信敏が信英の十三回忌に、五代著高が100回忌にそれぞれ建立し、奉納したものである。特に、信敏建立卯の石燈籠は、元禄以前の歴史資料。○津軽信敏建立の石碑…御廟に建立。二代信敏が信英の死後一年目にあたる寛文3年(1663)に信英の墓として建立。○藩祖信英公頌徳碑…御廟に建立。三代政兕が、信英の五十年忌にあたる正徳元年(1711)に建立。信英の事績が詳しく刻まれた石碑。○黒石神社の神門…切妻・鉄板葺屋根の一間一戸の薬医門、両袖を配す。明治12年に、黒石陣屋に関わる建造物を移築し、黒石神社の神門とした。黒石藩の建築文化を知る上で貴重な遺構である。平成26年3月28日黒石市教育委員会』

通称御廟通りに面している出入口のイチョウの御神木。創建往時は鬱蒼とした杉の大樹に囲まれた神域でしたが、酸性雨や台風による倒壊もあり、昭和の末にはかつての荘厳さを失ったことから、地元の建設業中村哲郎氏が昭和60年から翌年にかけて杉48本を植樹奉納しております。現在、境内の周囲はさわら生け垣に囲まれています。

摂社東照宮鳥居。
鳥居神額(宮司津軽承公)

御由緒及び黒石藩祖津軽信英公分知360年祭記念東照公御奉遷満天姫神祭事業奉賛者御芳名。なお、由緒等については以前の記事を参照ください。

過去の記事及び関連記事

東照宮。

鳳輩攸之駐碑…『正二位勲二等伯爵津軽承昭題額 嗚呼此地 明治天皇駐蹕之所也辛巳秋 天皇巡幸秋田山形及北海道九月九日發青森行宮抵此暫駐蹕賞覧山川風景以慰 叡情云伏惟 天皇天縦神武收武門政權立中興大業四海安寧萬邦仰徳巍巍鴻業千古無儔奈何皇天降禍奄棄臣民登遐上下慟哭如喪老妣黒石町長吉村眞追想昔日駐蹕之事感念不能措乃與衆民相謀樹碑以傳不朽當時先師川田剛以一䓁編修官扈従記其事名曰随鑾紀程乃抄其一節以為證云 黒石驛列肆齊整人口六千汗石川發自櫛岑蘆柄兩山西流繞驛南逕藤﨑入岩木川田土肥沃所産嘉穀推為本州第一明暦中津軽為信四世孫信政割地五千石封叔父信英於此後世進秩萬石中興納土士民建祠祀信英號黒石神社構小亭於社側迎蹕奏古楽亭負邱枕川平沙渺渺長𣘺臥波 大正元年十一月 外崎覺謹撰 正七位近藤富壽書』

信英公分知340年記念植樹協賛者御芳名…『明暦2年(1656)黒石藩祖津軽十郎左衛門信英公は、宗藩弘前四代藩主信政公より五千石を分知され、同時に陣屋を建て町割りを行い良政をしき現在の黒石市発展の基を築かれました。ここに、本年分知340年を迎え記念植樹事業を行うに当たり、御協賛賜りました方々の御芳名を記し、永くその赤誠を顕彰申し上げます。平成8年5月19日黒石神社崇敬会会長山田裕敬白』

芭蕉句碑「芭蕉 春も稍 けしき調ふ 月と梅」(明治26年3月、東根舎社中)。なお、黒石神社には芭蕉の奉額(明治15年5月)もあります。

五訓の森碑(勅諭下賜五十周年記念、昭和7年4月24日)。黒石神社は南を宇和堰が流れる崖の斜面約10m上の台地に鎮座。境内約1,800坪。境内南方、この芭蕉句碑や五訓の森碑の裏が崖になっています。この高台から黒石神社八景が詠まれました。

神社の裏手(市役所駐車場貸借地)にある建造物は津軽信隣廟所です。黒石津軽家二代領主信敏公の三男で、信英公の孫です。延宝5年に江戸で生まれ、母は弘前藩四代藩主信政公の妹である美与姫。信隣は黒石市の保福寺(黒石津軽家菩提寺)の開基。信隣は元禄16年5月1日に黒石にて没し、法名は「清涼院殿融山宗峯大居士」(行年27才)。
上記でも述べましたが、現在でもかつての信英公の廟所に倣って南面して建立されており、崖を背にして拝礼する形になっています。平成15年5月31日(旧5月1日)に津軽家で三百回忌法要執行。これに先立ち、廟所の外溝縁石敷設工事と由緒板を建立。※由緒板はありませんでした

廟所前にあるこの碑は、正面に「獻上」と刻んでおり、その他は読み取りにくいのですが、「宝永元甲申年五月朔日」と非常に古いものです。




















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