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黒石市大字前町。江戸期は黒石城下の一町。黒石陣屋の東に位置し、北は中町、南は袋村に接する町人地。大鰐から浪岡に至る乳井通を浅瀬石川で右に分岐する「上ノ坂道」があり、境堰を経て上ノ坂を登りきると当町に達し、右手には神明宮。享保年間頃の黒石府家之図では28軒の町屋敷が見られます。当町は宿場町であるとともに商人町でもあり、黒石藩主から酒造株札を得た加藤孫兵衛の聞届造酒高1,000石のうち150石は当町の池田屋太郎兵衛、同じく加藤与兵衛の聞届造酒高500石のうち加藤与兵衛分200石、鳴海久左衛門分150石、松井彦左衛門分150石は当町で醸造。文化3年の黒石火消組五ケ組(浅瀬石川郷土志)では、当町の東並は山形町組、西並は鍛治町組に属しました。嘉永4年の火災により14軒を焼失。幕末から明治にかけて、当町上ノ坂には小野川遠江、同速瀬男を師匠とし読書・習字を中心とする寺子屋があり、男児200名を教えました。他には山内対馬の寺子屋があり、寺子数は男児40名。宝暦9年の黒石神社書上帳には神明宮・八幡宮・住吉宮が記されています。神明宮は当町東南に鎮座し、文禄年間には小祠があり、延宝5年には山内伊勢太夫が別当となっています。また、天和2年の大願主津軽右京信秀の名がある棟札を残します。寛延2年、黒石の酒造業者が近江から松尾社を神明宮境内に勧請しています。文化8年には神明宮で富くじを発行。天保5年には上町組若者による芝居が興業されています。住吉宮は元は観音堂と称しており、明暦2年の住吉観音堂の神主として山内相模太夫の名が知られています。津軽三十三観音の第二十六番札所でしたが、明治2年の久一火事により焼失し、札所は山形町法眼寺に移りました。明治2年に当町の商家「久一」こと鳴海忠左衛門方から出火して町内を全焼(久一火事)。明治初年の国誌によりますと、町の状況は「市店豊整、百貨を陳列し、酒戸宍肆軒を連ね、人馬轟奔し、当区の酋衢なり」と国誌に記されており、町の規模は長さ3町29間半・幅3間5尺5寸、戸数65。また、当町より東の鍛治町まで至る小路があり、当町から裏町の角まで長さ50間・幅3間1尺とあります。同17年の戸数83・人口419。同22年黒石町、昭和29年からは黒石市に所属。明治23年の当地の規模は東西1町55間、南北3町54間、家屋数63、倉庫35。同25年当町の三長客舎前で本多庸一がアメリカ見聞演説をしています。同27年第59銀行黒石支店開行。戸数・人口は同28年66・412、大正元年76・448。昭和6年盛岡銀行黒石支店開設。同21年青森銀行前町出張所が開設。
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以前の記事も参照ください。
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こちらの石塔の囲いは昭和10年7月16日奉納。それぞれ町名と名前が彫られています。
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社号標「神明宮」。逆光で上部が見辛かった。
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春日灯籠一対。
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社号標「神明宮」(明治32年旧9月16日)
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あじさい植樹の標柱。
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黒石神明宮は、文禄年間には既に宮祠があり、祠官がいたと伝えますがその詳細は不明。
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黒石二代信敏公が天和2年(1682)に本殿・神楽殿を建立して祈願所とし、永代神楽を執行させました。明治2年の大火によって社殿焼失し、明治12年新築復興。御祭神は天照大神。例祭7月16日。
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黒石神明宮案内板より…『御祭神:天照大御神。相殿神:松尾大神・住吉大神・牛頭天王・天神。【由緒沿革】起源不明なるも文禄年間(1592-1595)410年前、第百七代後陽成天皇時代、現地にすでに小祠があったと伝えられている。正保年間(1644-1651)360年前、三代将軍徳川家光の時代に御国三十三観音の二十六番目黒石札所もここにあった。天和二壬戌年(1682)九月十六日、323年前、黒石藩主津軽信秀公願主となり「武運長久・子孫繁栄・領内安穏の為」家老発田茂太夫城代澤井直右衛門を遣わし奉行、町年寄、棟梁等を督励して本殿、神楽殿を建設し藩主の御祈願所とし永代御神楽を勤めさせた。宝永三丙戌年(1706)五月吉辰日299年前、黒石領主津軽信敏公の精舎神明宮を造立した棟札が神明宮に残されている。寛延四年(1751)津軽三十三ヶ所順礼によれば二十六番黒石とあり、堂一間四面西むき、前に一間に二間の拝殿あり、住吉大明神の堂、牛頭天王の堂、二間に三間の神楽殿、神明宮、天神の堂、松尾大明神の堂あり、この所を上(かみ)の坂という。明治二年五月十四日黒石前町の大火により焼失し、現在の建物は明治十二己卯年(1879)十月三十日、126年前に氏子浄財にて本殿・幣殿・拝殿・冠木門・玉垣・石垣を新築する。【主要神事】・歳旦祭1月1日・開運厄除2月1日から・節分祭2月3日・祈年祭4月29日・植樹祭5月(第4日曜日)・夏越大祓6月30日・宵宮祭7月15日・例祭7月16日・神明宮天岩戸祭9月16日(旧暦)・新嘗祭11月23日・松尾祭12月13日・年越大祓12月28日・大晦日祭12月31日・焼納祭12月31日』
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鳥居(平成5年12月29日)
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参道。
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鳥居(昭和37年6月16日)
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右手には神明児童公園。
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こちらの建物は不明。
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鳥居(昭和60年7月16日)
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こちらは鳥居の跡かな。石灯籠か何かかな。
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絵馬掛所。
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左手に社務所、右手に手水舎。
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手水舎。上部の星がかっこいい。
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手水石(寛保四甲子年3月11日)。古い手水石ですが蛇口が最新でかっこいい。
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石灯籠一対(昭和9年7月16日)※一基は半壊
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23.5
石灯籠一対(大正15年7月15日)※一基は半壊
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24.5
社殿前。
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石灯籠一対・狛犬一対(大正8年4月16日)
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26.2
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26.8
狛犬一対(昭和11年7月16日、黒石町石工工藤要三郎)
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社殿。
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千木(内削ぎ)・鰹木。
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29.5
神社庁より…『御祭神は天照大神。例祭7月16日。起源不明なるも文禄年間(1592-1595)、第百七代後陽成天皇時代現地にすでに小祠があったと伝えられているが、それは或いは正保年間(1644-1651)、津軽三十三観音の26番目の札所となった黒石観音堂ではなかったかと思われる。寛延4年(1751)、「津軽三十三所順礼」によれば26番黒石とあり、「堂一間四面西むき、前に一間に二間の拝殿あり、住吉大明神の堂あり、牛頭天王の堂あり、二間に三間の神楽殿あり、神明宮あり、天神の堂あり、松尾大明神の堂あり、この所を上の坂という」。天和2年(1682)9月16日、黒石藩主津軽信秀公願主となり武運長久子孫繁栄領内安穏の為、家老発田茂太夫城代澤井直右衛門を遣はし奉行、町年寄、棟梁等を督励して本殿、神楽殿を建設し藩主の御祈願所とし永代御神楽を勤めさせた。明治2年5月14日黒石町大火により焼失。同12年新築す。』
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拝殿向拝神額。
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拝殿内。正面に「天照皇太神」、その横に「松尾社」の神額。左右に立派な絵馬。
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神武天皇御尊像
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幣殿・本殿。
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本殿前石灯籠一対。
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雨雀・要吉生誕百年記念碑(昭和57年12月黒石文学会建立)
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「土用波さかまく海の底深く流れてやまぬあわれ黒潮」雨雀
「なに思ふこどもも遊ぶあそべとて春のよい夜の橋がかわくに」要吉
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裏面碑文…『秋田雨雀 明治16年(1883)1月30日生 鳴海要吉 仝年7月9日生 共に少年期を前町坂の上に住み、ここ神明宮を遊び場とした。雨雀は弘前中学校から早稲田大学英文科を卒業し、新劇の指導者として名をなし、一方児童文学及エスペラント語の先達でもあり、そして常に革新の道を進んだ。要吉は少年時代から島崎藤村と文通し漂泊の詩人として独特の短歌をつくり、歌集「土にかへれ」は我が国短歌界に独自の地位を占めている。1982年12月黒石文学会』
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故師匠小野川遠江・小野川遠瀬神霊(明治39年8月10日)※牡丹平の出石田稲荷神社の猿田彦太神碑に、神主として小野川遠江の名が見えます。
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二十三夜塔
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百万遍(昭和6年旧5月、石黒勇吉)
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猿田彦命(天和3壬辰年7月16日講中)
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阿奈猿田彦太神(慶応元年(乙丑)9月28日)・庚申塚(大正9年旧3月24日講中)
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庚申塚(昭和6年旧5月19日、発起人中村幸初郎(外18名))
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境内からの眺望。
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殉職警察官慰霊碑(明本正弘書)。台座に殉職者警察官名。黒石警察友の会創立15周年記念(平成4年8月11日建立※但しその後の追銘あり)
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義俠岡﨑守三氏之碑(大正4年6月28日)
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黒石市のHP「綾川五郎次」の頁によりますと『岡崎守三は当時、黒石一番の古い旅館を経営していたが、巡業の途中で病気になったり、けがをした力士の面倒をみるなど町の世話役でもあった。鳴海家とは隣り同士でもあり、要作少年のよき理解者であった。黒石神明宮(前町)の境内に「義侠(ぎきょう)岡崎守三の碑」が建っている。「大正4年、綾川五郎次、小野ヶ崎金作これを建つ」とある。』とあります。
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裏面には紀年銘のほか「力士 綾川五郎次 小野ヶ崎金作」とあります。
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義俠盛忠兵衛氏之碑(大正10年7月20日)
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