1
弘前市福村新舘添。元豊田村の一部が福村と境関地区です。そのうち平川と引座川の合流点近くが大字福村で、西は福田、北西は境関、南は新里(いずれも元豊田村)に接します。早稲田、新館添、福富、林元、堀合、俵元、館山、上川原、下川原の小字があり、下川原の北に平川を越えて尾上町日沼の飛地が入り込んでいます。福村は貞享4年御検地水帳によりますと、平賀庄堀越組に属し、堀合、川原田、林の元、わせ田の小字があり、田畑屋敷合わせて97町7反5畝16歩(分米881石9斗7升9合)、うち田方66町9反13歩、畑方30町8反5畝3歩、郷蔵屋敷を含めた屋敷地は1町3反2畝14歩(正保2年の津軽知行高之帳と比較すると2倍以上に増加)。天保5年郷村高帳によりますと、寛政5年に113石4斗、享和2年に154石、文化7年に112石1斗の新田高が書き上げられています。用水は新里で平川から取水する作之丞堰・福村下堰を利用。貞享4年御検地水帳にある67間に56間の古館が福村城址。
2
以前の記事『福村城跡 (青森県弘前市福村)』※多少内容が異なります
3
福村城址は天正3年に津軽為信が南部氏の大光寺城和徳城を落城させた後に、この地域の強化を目的として築城され、森岡金吾が居城。慶長5年の森岡金吾謀殺後に三男信枚(後の二代藩主)が入城し慶長10年に廃城。廃藩まで塩硝蔵が置かれたといわれ、また、本藩通観録には「為信公御代御縄張、堀斗り出来、屋形相建不申相止」とあります。城址は南郭(二の郭)と北郭(本郭)の二郭から成り、北郭は東西・南北方向とも約150mのほぼ正方形で、内側に土塁が巡らされていたと考えられています。南郭もほぼ同様の方形で、四周に壕跡があり東端に大手口。天和年間の絵図では総面積三町五反五畝八歩で、漆木が南郭に400本、北郭に470本植えられています。なお、字俵元の周囲の水田より3~4m高いリンゴ園が福村古館(福村館)とされています(Googleマップで表示されます)。東西方向に3つの郭(東から順に上館、中館、下館)があり、その壕跡が道路になったと思われますが詳細は不明。館主は南部氏に対抗した大光寺城の葛西氏のように藤崎安藤氏縁りの者とされますが詳細は不明。
4
昭和52年に城址に社会福祉法人一葉会の特別養護老人ホーム福寿園がつくられ、その後、軽費老人ホームコーポはるな、ことぶき荘ができ往時の面影は無くなりました。
5
5.5
福寿園入口脇にある福村城跡碑。
6
昭和54年7月8日の福寿園増改築記念として、市長福士文知氏の揮毫により建てられました。
7
この碑の西側の低地の石垣は旧城の石を利用したものと考えられています。
8
8.5
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ