
平川市大光寺種元。平賀町史のこちらの地図を頼りに藤先寺跡を探してみました。

写真は平川市本町共同墓地です。

地蔵堂。


玉林堂。

金剛堂。

金剛月光観音菩薩像(平成13年7月吉日建之)

周囲にも石仏。


三百八十週年記念碑(昭和31年旧4月8日建之。村中一同。発起人-船水銀次郎、福士嘉吉、福士勇吉、船水新一、須々田喜太郎。住職-寺谷勝栄)

有縁無縁供養塚(昭和46年6月28日、施主川原盛榮)

墓碑(直明治12年4月26日、随同7年12月25日、明治18年隂4月26日建之、櫻庭慶吉)

六地蔵(昭和61年8月12日、須々田由雄、たか奉納)

玉林寺橋(昭和30年7月7日、工事者乘田敬八建之)という碑がありました。

とりあえず六羽川に架かる橋に向かってみます…うん?
苦戦すると思いきや、あっさりと藤崎寺跡の標柱を見つけてしまったかも。
六羽川を渡った先です。

六羽川。2枚目の遠くに見える森は八坂神社の鎮守の杜。


やはり標柱がありますが、私有地なので八坂神社方面から迂回します。

ちなみにこの橋の名前はありませんでした。
八坂神社です。藤先寺は八坂神社(元観音堂)の北隣地に所在したといいます。

八坂神社の境内から北方に抜けます。

岩木山が見えます。

大光寺史より…『長雲山藤先寺(古跡)本町字北柳田の現在八坂神社(元観音堂)の北隣地に所在したといわれる。天中(正)年中の創開に係わる。これより先き開山、中岳和尚津軽為信の依嘱により、上国に使して功あり、その賞として地三十石を賜わり、庵地を転じて寺としたのがその起りである。後、天正十三年三月為信の二弟没し当寺に葬るや、その法名を因んで長雲山藤先寺と号した。また慶長八年四月津軽建広の室没し又当寺に葬り田七石を寄せらる。同十六年公命により弘前に移る。』

長雲山藤先寺(曹洞宗通幻派)当寺縁起…『藤先寺は天正年中の草創なり、開山は中岳和尚、時に津軽為信公の奥方(戌姫=仙桃院殿)の義兄弟(五郎・六郎)が慶長年中に故有って同日に死し、その追善のために奥方が中岳和尚に頼み供養する。その頃、中岳という僧が藤崎村で庵を結び仏法に精進していたところ為信公は中岳を羽州(出羽国)大山城主・悪吉氏へ密使に遣わされ、幾多の危難を突破すると同時に、羽州の関主に怪まれて鼻を切られ岳僧形をそこなっても信念を貫ぬき、無事大任を果した功により、田数百歩三十石を賜わり、岳庵を転じて寺となり自ら開山の祖と成る。「開基空春藤公大禅定門-六郎丸 達叟先公大禅定門-五郎丸」御二人の戒名の一字を結んで藤先寺と唱える。その後、大光寺城主・津軽左馬之助建広公の奥方になられた為信公の娘・富姫様が慶長八年四月二十一日に亡くなられたので、藤先寺を大光寺に移し、田七石を増して姫(然慶妙悠大姉)の碑を藤先寺に建て、翌九年に北柳田の地へ三重塔を建立して供養法会を営む。時に竜山近衛前久公が富姫追善に六首の哀悼歌を寄せられる。そして当寺は慶長十六年現在地に移る。「開山中岳善哲大和尚 二世祭庵玄寿大和尚(中略)三十五世孤岳潮音大和尚(本堂氏) 三十七世古川道雄」』

藤先寺跡到着!

標柱(平成12年10月平川市教育委員会)より…『中岳和尚が藤崎村で開山。その後大浦為則の実子五郎丸、六郎丸の菩提を弔い、両名の戒名の一字を結び藤先寺と唱える。その後、大光寺城主津軽左馬頭建広の室である津軽為信の娘富姫が慶長8年(1603)に没したため、藤先寺を大光寺に移し姫を葬るとともに供養のため本町に三重塔を建立した。高岡城(のちの弘前城)築城にともない、慶長16年(1611)に弘前に移転したといわれている。』

泉光院跡からもかなり近いですね。泉光院跡はあの辺です。

関連記事:『泉光院跡地 (平川市)』


おまけ。弘前市はあすぎ庵のいちご大福&あずき庵のみかん大福&あずき庵のバターどら焼き!




コメント
コメント一覧 (2)
誠にありがとうございました。m(_ _)m
ちなみにバタドラ派です笑
yuki
が
しました