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平川市平田森若松。鬼の歯盛。
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寛政8年5月19日、菅江真澄は鯖石に宿をとり、その翌20日に3度目の平賀入りをしました。菅江真澄「すみかの山」より…『(前略)平田森という村の田のなかに、はもり、はしもり、つるぎもりという塚が三ヵ所にあった。はしもりは、村はずれの稲田のかたわらに、その跡ばかりがあり、由来はわからないという。むかし鬼がいたのをうちたいらげ、その鬼の頭をくだき、歯をかきおとしてそれを埋め、塚をきずいて、いま歯もりといっているのだそうである。鬼をきった太刀は塚にこめて、歯もりのあたりにあり、「あそこだ」と教えられたので、田のあぜをつたって、はもりにいってみた。雨乞いの祈りをするとき、この塚をかきあばいて、この鬼の歯というものを掘りだすと、かならず雨が降る。このごろ、日でりで雨がほしかったので掘りおこしたのがこれだといった。みると、牛の歯とほぼ同じもので、いくらか違うようにも思われた。世間で言う竜の歯などでもあろうか。いくつともなく掘りだされていた。荒田村にはいり、田のなかをすすんで尾の上の部落にで、日も暮れてから黒石についた。』※本文図絵に鬼の歯の写生あり。
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平田森縁起碑…『俚人ノ傳承ニ曰ク往古廣舩山ニ鬼神住ミ良民ヲ掠メテ飽ク䖏ヲ知ラス偶々田村麿将軍来リテ是ヲ征ス鬼神熊屋敷ニ據リテ是ヲ防キシカ力及ハス自ラ跳躍シテ此ノ地ニ遁レ遂ニ血ヲ■■■斃ル里人是ヲ憐ミテ屍ヲ葬リ盛ヲ築キテ其ノ霊ヲ弔フ是即チ今ノ平田森ナリト而シテ鬼神ノ飛ヒ降リシナリトテ此ノ盛ノ北方田間ニ今尚水ヲ湛エテ草ノ生エサル所アリ雄渾ナル傳承ハ我等ヲ暫ク神話ノ世界ニ魅了スト雖モ考古學的ニ是ヲ考察セハ鬼神ノ足跡ニシテ又ソノ葬リシ盛ト云ヒ是皆草昧ノ世ノ宗教的遺物ニシテ徒ラニ科學的解剖ヲ為ス可キモノニ非ルナリ 中世此ノ地安東氏ノ領有タリ大光寺城ノ外廓トシテ寺院設ケラレ附近ニ今尚光宮しんしつ森越歯盛五輪等ノ遺蹟歴然ト存ス然モ時代ト共ニ此ノ盛ハ潤色セラレテ崇敬サレ天和四年ノ繪圖ニハ方十二間高サ二尺トアリ其後瑣少ノ變遷アリタレト今尚儼然ト往古ノ儘ニ存ス平田森村ノ村名ハ此ノ平タイ盛ニ因ミタルモノニシテ現存ノ其ハ徳川時代初頭ノ開墾ニカカル天和四年ニハ庄屋権兵衛ヲ初メ太郎左衛門作十郎作右衛門清三郎甚左衛門彦左衛門七兵衛助兵衛三四郎甚四郎九郎右衛門重光院常圓ノ十四戸アリ越エテ天保十年ニハ家数三十一戸トナリシカ明治以後七十年ノ間ニ其ノ三倍ヲ超エ昭和十七年ニハ遂ニ百戸以上トナル是皆國家隆昌ノ反映タリト雖モ一八村民克ク和衷協同シテ村勢ノ發展ヲ計リシ賜物ナリ 齋藤彦彌翁若年ヨリ神佛ノ信仰厚ク夙ニ神社ニ鳥居石橋等ヲ奉納シテ其ノ敬虔ノ念ノ一端ヲ現ハシ来タリシカ今四戸数百戸ヲ超エタル記念ニ此ノ盛並ニ村ノ由来ヲ明ラカニシテ後世ニ傳ヘント企テ来リテ予ニ撰文ヲ請フ乃其梗概ヲ綴リテ其ノ責ヲ塞クト云爾 昭和十七年九月八日青森縣史蹟調査委員松露山人 葛西覽造撰 高山松堂書』・『昭和十七年九月八日建設者平田森村草分之一人齋藤彦兵衛十七世子孫齋藤彦彌、妻こと』※ちょっと時間的に薄暗かったので間違っているかも知れません。■は汚れで読み取れず
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厄除記念(七十二翁齋藤彦彌、明治五年六月十二日生)昭和18年4月10日
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5.5
初夢祈願碑(昭和16年8月25日、齋藤彦彌)。鷹やナスの絵が彫られていたといいますが現在はまったくわからない状態です。碑は山の形をしています。つまりこの碑はまさに「一富士二鷹三茄子」だったんですね。
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昭和16年8月、齋藤彦彌。
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