弘前市安原二丁目と学園町の境。弘前大学馬術部馬場付近。
何か鬱蒼としています。
下りることができ、道がありますがぐちゃぐちゃで歩ける状態ではありませんでした。
他の場所からも下りれるようです。
こちらは階段。
先ほどぐちゃぐちゃで歩けないと言った場所。
道が続いていますが、途中からぐちゃぐちゃで歩ける状態ではありませんでした。
ってことで、一旦道路に戻って南下すると東屋があり…
その場所から見下ろしたところ道が綺麗でした。
先ほどぐちゃぐちゃで歩けないと言った場所。
更にその先にも下りることができる場所がありました。
北側。歩いてきた方面です。
南側。
下りることができますが…
この先は道というより草むらですね。向こうに見える橋は松安橋(しょうあんばし)。松原と安原で松安橋なんでしょうね。ちなみに水はありませんが、川の名前は洞喰川です。洞喰川は大和沢川から流れてきており、千年を通って松原を縦断し、ここへと繋がっています。
再び冒頭の学園町付近に戻ります。
水はここを通って…
弘前大学教育学部附属小中学校方面へ。
弘前大学教育学部附属小学校のグラウンド脇を通り…
弘前大学教育学部附属小中学校グラウンドと柴田学園大学の間を通り…
取上の貴船神社を通り、小比内方面、腰巻川のある豊田方面へと流れていきます。ところでひょうたん池がひょうたんの形をしているのかどうかについてはわかりませんでした。恐らく増水した状態で上空から見れば、ひょうたんの形になるんだと思います。
コメント
コメント一覧 (11)
そうです。玉田商店の奥は広い畳敷きになっていて、
部活帰りにお湯を入れてもらったカップラーメンをすすったりしてました。
かき氷も美味しかったですよ。店主の夫婦仲は・・・覚えてません。
品揃えは、駄菓子屋というよりは普通の食料品店でした。
「わらべ」もご存知でしたか! 開店は昭和55年頃でしょうか。
おにぎりは作り置きじゃないんです。おばちゃんが注文後に握るんです。
最高級が「えびっ子」のおにぎりで、80円。筋子はありません。
60円のおはぎも人気でした。テーブル席と座敷が一組ずつの狭い店です。
美味しかったなあ。玉田から20mぐらい西にありました。
禅林街入口の集会所、なくなりましたか。
私が子供の頃は、あそこは剣道の道場に使われていたと記憶しています。
野砲兵第八聯隊跡って、たしかブナコの辺りですよね?
近年、ブナコがお洒落な工芸品として人気だと聞き、びっくりしました。
ただの古めかしい製材所だと思っていたもので・・・。
コープあおもり松原店は、今思えば、スケールは小さくとも
イオンモールばりに多彩な売り場がある店でした。取り壊しは残念です。
常源寺(檀家です)坂は、絶好のミニスキーとソリの遊び場でした。
森町の忍者屋敷は、親戚の家のすぐそばです。記事を探してみます!
いやいや、面白すぎます。
しばらくは、ゆっくりyuki様のページを散策させてください。
母方の祖父が食堂の経営をしていたのは、私が生まれる前のことです。
今でいうフードコートのように、フロアに多様な店を並べて差配したそうです。
私自身はかろうじて「かくは」の記憶もありますが、
思い出深いのはハイローザになってからですね。
ちなみに昭和2年生まれの父は、目屋の出身で、子供の頃には、
「主(つかさ)の塔」に仲間と忍び込んで遊んでいたというツワモノです。
ああ、また書き過ぎてしまいました・・・。
yuki
がしました
いやいや、こちらのHP、すさまじく興味深いです。
私は、茂森方面がホームタウンなので、
山観や長勝寺、禅林街の広大な墓場を駆け巡って遊びました。
もちろん、天満宮の堤の上で遊ぶのも定番でした。
こちらのHPで歴史的な深堀りができてうれしいです。
弘前公園周辺の記事も面白いです。勉強になります。
そういえば藤田記念館なんて、観光名所じゃなかったですね。
森に囲まれて近寄りがたい、化け物屋敷みたいでした。
ポップな文化風俗も充実しているじゃありませんか。
ナポリタン!、親が連れて行ってくれました。
セシボン!、はじめて友達と行った喫茶店です。
久渡寺のラーメン!、舌がありありと味を覚えています。
スカットランド!、帰省する度に行って飲んでましたが、
初めて行ったのは高〇生の時だったような気がします。
そうそう、シュガーは冨士見町か文京町にありましたね。
真っ白でモダンな建物でした。周辺に他の店がないので、
夜はそこだけ妖しく光っていて美しかったです。洒落てたなあ。
なんと、三岳公園の記事には「玉田商店」が!
また泣けてしまいました・・・。
もうないのですね。毎日、中学校の帰り道に買い食いしてました。
先生に買い食いを怒られた記憶はないです。おおらかな時代でした。
いや、また長々とすみません。
yuki様のアーカイブが豊か過ぎて寝不足になりそうです。
本当にありがとうございます。
楽しませてもらいますね。
ちなみに私の祖父は、「かくは」の食堂の支配人でした。
yuki
がしました
私は東京在住ですが、1967年に生まれ、85年まで弘前に住んでいました。
95年ぐらいまでは毎年帰省していましたが、最近はすっかり帰っていません。
たくさんの貴重な記事、写真を見せていただきありがとうございます。
いやあ、困りました。もう、涙があふれて止まりません。
今泉書店が毎月届けてくれた児童雑誌を読んで育ち、
25円を握りしめて川越の小金焼を買いに行ったものです。
もちろん土手町は、「上も中も下も」青春そのものです。
私は付属幼稚園から中学までの12年間、学園町に通っていました。
ですから、ひょうたん池のことはよく覚えていますよ。
私たちはあの池を「かっぱ沼」と呼んで不気味がっていました。
森のように樹木が密集していて、付近には狭い農道しかなっかたです。
付属小中のグラウンドの向こう(今の清原・安原)は一帯がりんご畑で、
沢が縦横に流れていたと記憶しています。
子供にとっては、遊んでいると方角を見失ってしまうぐらい広大な畑でした。
付属幼稚園の裏手(東側)には、放棄された牧場のようなものがあって、
廃墟になった牧舎やサイロに忍び込んで遊んでいました。
それはもう、本当に楽しかった!
のちにミタケ(三岳?)公園という名前になって整備されてしまいましたが・・・。
長々とすみません。
本当にうれしかったのです。
これから、さらに隅々までページを拝見させていただきます!
yuki
がしました
取上の弘法大師様の堂、地蔵様の堂、
刑場とかの話で、、、
yuki
がしました
安原側にウチのりんご畑がありました。
下流に続いてます。洞喰川(ほらばみがわ)です。
真夏でも水が枯れることはありません。
yuki
がしました