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青森県南津軽郡大鰐町居土。かつて折紙館があった地域。折紙館は居土村の枝村である折紙村の西方約500mの折紙川の河岸段丘でできた舌状台地にあったとされ、空堀が東西に残されています。南方は急斜面で折紙沢へと続きます。郭はほぼ円形で南側に3つの突出部があります。この郭はこの山において唯一の平坦地で現在は杉林。誰が造ったものかは不明ですが、この館の折紙川をはさんでの向かい側の水田(折紙村入口右手)の間の台地に、元大浦家老(元津軽為信の家老)小笠原信浄(信清/のぶきよ)の墓碑があります。※折紙館と小笠原伊勢守信清の関連については正確には不明です。
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どこにあるかわかりますか?
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ここです。
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小笠原伊勢守信浄は晩年為信のためこの地へ幽閉されたといいます(諸説あり)。そこで信浄と共に多くの偉い武士がここに移り住み、水田や畑を開拓しながら住んだことから、武士が居るとのことで居士村、居士村が更に居土村になり、折紙村は居上村(おるかみ、居士村の上にある)から折上、折紙になったという説があります。※居土村は小笠原信浄を監視する武士たちがいた村とのことで居士村から居土村になり、その監視を命じられた古文書が残されているとのことです(郷土史家木田貞夫談)。※折紙の名が出てくるのは享和2年の書上帳。
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また、戦乱が続く中、多田玄蕃を頼り、安住の地を求めて居土に来たともいわれます。天正13年、田舎館城は為信によって落城、千徳掃部政武の妻お市の方と子息武丸は逃れて鬼沢村の郷士棟方孫左衛門に身を寄せ、後に相馬の藍内村に移り、その後藍内村から水目内の於由貴を頼って住んだともいわれています。於由貴は多田玄蕃の長女で浅瀬石城主千徳大和守政氏に嫁し、慶長2年の浅瀬石城の落城時に郷里水目内に帰り、父玄蕃の元にいました。子息の安芸守政康はこの戦いで討死しましたが、政康の妻は小笠原伊勢の娘。千徳政氏も政武も親類であり、多田玄蕃も小笠原伊勢も千徳家と連なる親類仲でした。よって当時名の知れた勇将多田玄蕃の下に安住の地を求めたものと思われます。
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小笠原伊勢守信浄がこの地に来た理由(その他の説)…①為信にこれまでの重臣が抹殺されたことが自分にも及ぶことを恐れて親類の多田玄蕃を頼って避難。②小笠原伊勢は慶長年間に東長根の代官も兼ねていて石川に住んでいましたが、石川城が落城した後に南部勢が奪回進入すると聞き、為信が秋田からの山越え口を守るために信清を派遣して館を築いて住まわせた。
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小笠原伊勢守信浄墓碑。
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慶長院殿忠輔義貞大居士
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慶長四年四月十九日。大浦之老臣小笠原伊勢守信淨。
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髙山松堂著。裔詧
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裏面。裏面は読み取りにくい状態です。
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昭和9年旧4月19日と見えます。
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更に建立者として末裔の小笠原氏3人の名が刻まれています。
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14.4
14.8
石工佐藤如松かな。ちょっと下部が読み取りにくいです。
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