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五戸町扇田野沢。浅水川の河岸段丘上。
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2.5
浅水城から約3km下った南岸丘陵であり、国道4号がなければ互いに見通せる距離になります。
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鳥居。
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鳥居神額「正一位稲荷神社」
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御神木。境内にはスギのほか、コナラ、ハリギリといった町天然記念物もありますが、城主が盛岡に帰った後に植えられたものと推測。信仰心の篤い部落民が稲荷神社を建て、城跡の崩れを防止するために植えて鎮守の森にしたものであるともいいます。
6
6.2
6.4
6.6
6.8
これは何でしょうね。
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男根の石にも見えましたが不明です(下記参照)。
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「竣工 中山間直接支払制度 野沢城址公園参道整備事業 平成18年8月31日」
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参道。
10
10.5
眺望はありません。
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道が二手に分かれますがあまり差はありません。
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野沢稲荷神社。
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五間四方。昭和35年8月新築。
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拝殿向拝。
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昭和35年8月新築時の神額が下に置かれていましたが、脚立があったので一時的に取り外したものでしょう。
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幣殿・本殿。
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狛犬一対(大正12年旧8月3日、願主 扇田野沢 古川佐助、西伯利亜出征記念)
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18.4
18.8
「流れる五戸川」に『(小型唐獅子二基の…)そばのほこらを見たら、男根二つが並べてあった。恐らく野沢川から拾って来た細長い(十五糎)石であろう。祠のまわりを見ると天明九年八月三日と銘記されてある。百九十年前の祠であり、かっこよい自然石二つを、上手に四角の祠に入れた道祖神だ。』とあります。この祠かどうかはわかりませんが男根の石はありませんでした。
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扇田部落の対岸に野沢があり、野沢城(ぬさじょう)跡は稲荷神社が鎮座する野沢部落の高台にあります。
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文明年間、南部20代藩主信時の三男南部重義(浅水氏の先祖南部政康の弟)の一代限りの城主。応仁の乱の頃で、世の中は豪族の争いが激しい中において、北の護りとして築城されたといいます。
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かつては二重の堀をめぐらしていたといいますが、道路拡張整備の際に城下西堀が埋められて堀跡は宅地と道路に変化。なお、扇田小学校跡の沢から湧く若水は殿様がお茶の水として使用した清水であると伝えます。
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信仰心の篤い部落の人々が野沢重義公と大国主命を祀り、野沢の氏神として毎年旧8月3日に例祭を行っているとのことでしたが、恐らく倉稲魂命も祀っているかと思います。
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野沢城跡(五戸町指定文化財(史跡))…『野沢城は、文明年間(1469~1486年)南部二十代信時の三男重義が築城した。この時代、天下は応仁の乱で乱れ、南部氏も糠部の地を平定しようとして、この地方の豪族と争っていたので、当時の南部氏の居城平良崎城北辺の護りとして築城されたものと推察される。城跡は集落のやや中央に位置し、二重の堀をめぐらしていたという。道路の拡張整備の際、城下の西堀が埋められてしまい、堀跡は宅地と道路に変わっているが、他の城跡や館跡よりもよく保存されている。本丸とおぼしき広場には稲荷神社の社殿があり、城主重義も併記されているほか、古樹がその歴史を語るように蒼然と繁って、城跡らしいたたずまいを見せている。地形から察すると、北と東からの敵を想定して、築城したように推察される。(昭和47年6月1日町指定)五戸町教育委員会』
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