(謹んで新春の御祝詞を申し上げます)
青森県平川市日沼高田。社号標(大正13年6月8日村中建之、78歳文堂書)。
青森県平川市日沼高田。社号標(大正13年6月8日村中建之、78歳文堂書)。

冠木門(明治45年4月8日有志講中、発起人42歳除厄紀念樋口粷太郎敬白、石工渋谷夘之助)。
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『三社神社(平川市日沼):鬼コ』
『三社神社(平川市日沼):鬼コ』
石灯籠一対(昭和9年11月吉日)


両部鳥居。

注連縄。

石鳥居(昭和11年5月8日初老紀念、須藤三郎、須藤喜助、樋口弥作、葛西熊吉、樋口與市、樋口百太郎)
石鳥居(昭和10年10月2日初老記念須藤多吉、除厄記念妻リヱ)
石橋を叩かず渡ります。
鬼コのいる両部鳥居。
鳥居の鬼コ。鬼コといったらプリプリお尻を要チェック!!と昔から勝手に言い続けてきましたが…何とっ!!鬼コのお尻チェックが中々浸透してきているようです。嬉しいことですね笑
ってことで定番のお尻チェック!…と言いたいところですが今回は違うのです。皆さま、お尻にばかり注目していて、背中チェックを忘れていませんか?

非常に見えにくいのですが、実はこの鬼コの背中には「葛西勝太郎・樋口平吉」と彫られております。お尻にばかり目がいくと絶対に気付かないレベルです。

葛西勝太郎氏本人によりますと、祖父が大工である樋口さんと共同であげて、孫である自分の名前を書いたと祖父本人から聞いているとのこと。また、宮本万之助氏の口伝では、鬼コは高山邸から持ってきたものではなく、村へ移してから造ったと思われ、また、葛西勝太郎は利三郎の別家であり、樋口平吉は彦八の子孫とのこと。鬼コの歴史が見えてきますね。

狛犬一対(昭和7年7月8日須藤熊吉、妻ここ)
石灯籠一対(明治23年5月8日)


狛犬一対(明治20年6月8日、発起人葛西利三郎・須藤午之助・葛西萬太郎、弘前石工山内三次郎)
注目すべきは台座にびっしりと彫られた文。一度解読しようと試みましたが、状態はあまり良くない上に、文章も長いために途中で断念しました。読めばたぶん日沼村の歴史や神社に関わることなど色々とわかると思います。私が途中まで頑張ったものは意味が通じないのでスルーしてください。
神武之爾ゝ乃古木之森ゝ可詮平川主水木絶■以岩城山之不改容足徴此山此水固與天壌無窮矣平水西岸林越欝葱有古叢祠是乃村社而世為葛西氏所崇祭也氏其姓平出平清重乃大光寺氏支強也枕平川營野田主居焉鎮數村為土豪而其宗家七當此時東有三戸氏西有安信氏或侵或襲遂為所滅是以遺族遠避關東恢復是謀久之而天運屬恭為偃武右文之世乃新創一村付奮村名曰日沼乃日沼村是也明治十■年得■官■建■社宮於塁趾■合祀遠袒所崇之大汝■彦名ニ神靈二神者義兄弟■■一心経營天下乃為顕世蒼生乃畜産定癒病之■又為攘恩■■■■災害成禁■之法■■百姓■■■家恩頼夫神也者■■■而降禍福也故■■福自我得之■可不敬■■■■氏有所■■立石造金■■願是■同族有志■■■■助工事者四十餘名蓋狻猊者猛威之歎也一哮■百獣伏再吼則百鬼■豈不虣哉二事竣功■之祠可永鎮神慮且祈■村■昌云 弘前石工山内三次郎



創立六週年記念碑…『我第三部消防組ハ昭和四年一月十一日創立セラレ部員一同奮闘事ニ従ヘリ依テ其規律厳粛成績優秀ナルノ故ヲ以テ金馬簾一條ヲ授與セラレ更ニ満四年間火災絶無ノ實績ヲ擧ケシニヨリ銀馬簾一條ヲ授與セラル村民亦創立以来甚大ナル應援ヲナシ部員一同ト協力シ昭和九年十一月遂ニ内務省ヨリ田地六反餘歩ノ拂下認可ヲ得以テ活動ノ財源トナスニ至リ其事業益發展セントス依テ茲ニ第六週年ヲ迎フルニ當リ碑ニ勒シテ記念トスト云爾 昭和九年十二月髙山松堂書』

御神馬(昭和12年4月1日建之)

台座「支那事変祈皇軍武運長久、歩兵准尉葛西與助、仝軍曹須藤佐市、仝軍曹葛西四郎、仝軍曹須藤惣作(以下省略)」

村社三社神社御事歴…『祭神:天照皇大神、譽田別尊、天兒屋根命、大己貴神、少彦名命。祭日:例祭五月八日、祈年祭四月一日、新嘗祭十二月十六日。境内地:三百四十五坪九合六勺。財産土地:原野壹町貮反六畝、田地三反貮畝貮拾九歩。氏子:九十八戸、崇敬者百貮拾戸。本社の創立年代は不詳なれど古くより庶民の崇敬ありて明治十三年五月八日衆庶參拝の許可を得久しく當村字李田、葛西利三郎氏邸内に祀られしを大正三年七月十日樋口甚左衛門氏邸内社、少彦名神社と社殿を合併して現地へ奉遷す。爾来本村の氏神と定められ氏子四氏の崇敬年と共に加はり恒例臨時の祭祀には至誠恭敬の實を擧げ特に維持経營を確立する為め土地財産を造成して神域社殿施設の整善を圖り鋭意御神徳の發揚に努めたる結果大正十三年五月十五日村社に列せられ仝年六月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。右は本社沿革の大要なるが神社崇敬の資として之を永代に傳ふ因みに本碑は奈良才助氏一生の厄年に當り御神恩報謝の一端として記念の為め自力奉建に係るものとす。紀元二千五百九十二年十二月八日社掌山谷清貞謹誌』

平和祈念(石匠桜庭音次郎)…『我々人類にとって平和ほど尊いものはありません家庭社会は勿論世界の国々が挙って永遠の平和を願って限りない努力を傾注するならば人類に無惨な不幸と破壊をもたらす醜い戦いはこの地球上から消滅するものと確信致しますあなた方は我が国の興亡をかけたあの大戦争に挺身せられ尊い身命を捧げて国の礎となられたあなた方の英霊に思いを致す時何人も感動と感謝の念を禁ずることができませうか ここに心からなる哀悼の意を表しますこの平和祈念を建立するに当り町民等しくあなた方の霊を心からお慰め申し上げ顕彰の誠を表すと共に二度と同じあの様な悲惨な戦争を繰返してはならないとの悲願をこめて有志一同相計り思い出の三社神社の一角に建立するに至ったもので有ります 英霊よ何卒永遠に安らかに鎭り平和国家の建設に御加護を垂れ給わらん事を 昭和五十七年八月十五日』・裏面…日露戦戦没者氏名、太平洋戦戦没者名、謝恩の記録(『此の碑は遺族の方々は勿論当町会民が等しくこの趣旨に賛同され浄財を寄進なされて建立するに至りました事は誠に有難く発起人一同深く感謝申上げると共に後世に傳記致す所似であります』)。

御神木。

手水石。

草創年月日不詳。旧村社。御祭神は天照大神、誉田別命、天児屋根命(以上三社)。少彦名命、大己貴神(以上相殿神)。祭日旧5月8日(現6月8日)。
古くより中津軽郡和徳村俵元の高山治助氏邸内に祀られ、 明治13年5月8日に許可を得て無格社となります。明治18年9月14日、 当村葛西利三郎邸内へ移転の許可を得て同年10月14日、 新たに社殿を造営して奉遷。以来、日沼村の産土神として厚い崇敬をうけてきました。大正3年7月10日、 当村の樋口甚左衛門氏は、 祖先が邸内に祀っていた少名彦神社を合祀して現地へ奉遷。 大正11年8月21日、 境関に鎮座する富岳神社の氏子であった当日沼を、 三社神社の氏子区域に変更することが承認され、 大正13年5月15日村社。昭和20年8月、終戦と同時に神社制度の根本的改革に依り昭和22年4月、 宗教法人令に依る宗教法人三社神社となり今日に至ります。
日沼村は大正11年8月まで境関村富岳神社の氏子でしたが、同年8月21日に富岳神社の氏子区域を離れ、三社神社の氏子区域に変更する儀が承認。よって、正式にはそれ以降、三社神社が日沼村の産土神となりますが不明な点も多いといいます。ちなみに富岳神社(御祭神大己貴神、少彦名命)は古来より薬師宮と称え、境関・日沼・大袋の3ヵ村で建立し、3ヵ村の産土神として崇敬されていました。元禄2年(1689)旧号富岳館内にある稲荷林に奉遷して再建したものともいわれています(元は神社北後方の大袋村寄りの平川対岸薬師淵にあったといいます)。その後、菅野・林子野木が加わり、5ヵ村の産土神として崇められ、嘉永年間に社名を大汝少彦名(おおなむちすくなひこな)神社と改め、明治3年神仏分離令により富岳神社と改称。三社神社の由緒については不明な点も多いのですが、言い伝えや記録などによりますと、般若寺(現在は中里町富野にあり、かつては猿賀十二坊の一つで天台宗※般若寺跡)は往古、日沼村高田と林子野木の中間にあったといわれ、この般若寺の塔頭に、薬師堂やその他の寺庵があり、天台宗の修験者たちが出入りしていたと考えられます。古記録によりますと、日沼高田に建保3年、少彦名大神(薬師堂)の堂宇を建立祭祀していましたが、天和2年(1682)7月の大風で倒壊。日沼村ではこれを再建する力がなく、当時日沼館(富岳館)に居館していた津軽藩の吉町弥左衛門がこれを富岳館に再建し、明治4年の神仏分離令の際に富岳神社となった(猿賀十七組内地誌編纂調)とあり、大正11年8月21日まで日沼村も氏子でした。日沼村では当時からその跡地に小さな祠堂を建立して内々お祭りをしていました。これが樋口甚左衛門邸内の少彦名神社(薬師宮)であり、樋口甚左衛門の先祖(大光寺城主滝本播摩の家臣三郎右衛門)が移住する以前から存在したことになり、般若寺薬師堂との関連が浮かび上がります(一説には浪岡北畠家の残党である葛西伝兵衛家の先祖とも関連があるといいます)。一方、葛西利三郎(理右衛門の直孫)屋敷内にも大汝少彦名神社(薬師堂)があり、明治18年9月14日和徳村高山家で祀っていた大汝少彦名大神を移遷したものです。以上、日沼村には薬師様関係が2社あり、双方張り合っていたので、猿賀村長小林賢之助の斡旋で話し合いの結果、大正3年7月10日、御祭神を前記の五神として現在地に奉遷し社殿を新たに造営。大正13年5月15日に村社に列せられ、翌6月24日神饌幣帛料供進神社に指定。昭和22年に宗教法人令による宗教法人三社神社となりました。※『津軽史事典』では「堀越組境関 貴野宮 境関・日沼・大袋三ヶ村にて創立(愛宕さまと同じ)」とあります。
その他由緒…『薬師宮、末社合社稲荷宮』・『明治18年、和徳村の三社神社を県の許可を得て葛西利三郎邸内で祭る。大正3年、三社神社と少彦名神社と社殿をあわせて崇敬してきた。大正11年、県の認可を得て初めて三社神社の氏子と認定された。大正13年、村社と認定された。』・『境内345坪、社掌山谷清貞』

拝殿向拝神額「參社神社」

拝殿内。

絵馬がたくさん奉納されています。

御神馬もおりました。

本殿。


本殿釘隠。




境内社(奉献樋口勝美、樋口フキ。大工奈良勝美。平成5年4月28日)

月夜見神塚(明治10年11月23日)

勧請猿田彦大神(恐らく明治、8月27日)

下部には名前かな…よくわかりません。

猿田彦大神(明治33庚子年7月21日、葛西利三郎、樋口平吉、葛西権太郎)



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