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Merry Christmas!!…ってことで、クリスマスっぽく忍者屋敷(青森県弘前市森町)の記事をお送りします。忍者もサンタもさほど変わらないでしょう。
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森町は江戸期の弘前城下の1町。城郭の南に位置。本町と茂森町を東西に結ぶ道筋の町。北に塩分町、南に覚仙町が並行しており、それぞれと連絡する小路があります。町名の由来は、弘前城築城以前には茂森山があった地で、元和元年に茂森山を削平して当地を造成したことに因むと考えられます。慶安2年の津軽弘前城之絵図によりますと、茂森山を掘り崩した跡地は空地(畠地)として見えます。寛文5年、当町の北側に時鐘堂を建てて城下に時を告げていました。この時鐘撞所は享和元年に改築。寛文13年の弘前中惣屋敷絵図によりますと、森町の町割りはまだ行われておらず、時鐘堂への通路は塩分町(当時は侍町)にありました。そのため塩分町は茂森町鐘撞堂下通とも呼ばれており、本町口にも鐘撞堂への通路が設けられています(元禄9年町絵図)。国日記によりますと森町が町割りされたのは宝永6年。享保6年の町割帳では時鐘堂の隣に蝋燭御蔵が見えます。寛政12年の分間弘前大絵図には鐘撞堂と蝋燭蔵の他に武家屋敷17軒があり、文化4年の御家中町割でも変化は見られません。森町から覚仙町に通じる東寄りの小路には町同心稽古所がありました。明治初年の国誌によりますと、戸数20、町域は「上は本町より下は茂森町に至る二丁十七間三尺幅四間三尺、貫属屋敷」とあります。当町は弘前で標高が最も高いため、時鐘所として最適の場所ですが、いつ頃まで鐘が撞かれたかは正確にはわかっていません。明治4年の町絵図に時鐘楼が見えます。明治31年、弘前に陸軍第八師団が設置され、司令部裏手(現富士見町)の号砲台で午砲をうつようになりました。当町は江戸期には武家屋敷街であったため、そのまま住宅地となりましたが、近年になり開業医院、料理屋、畳屋その他の職人が入り交る町と変化。
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弘前城のある弘前公園に隣接する弘前市役所から徒歩5分程度の場所です。江戸時代末期建立、木造平屋建て、約120㎡。行き止まりの道が忍者屋敷の雰囲気を感じさせます。
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旧相馬家住宅(弘前忍者屋敷)。甲賀流忍者屋敷。
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弘前藩に実在した忍者集団「早道之者(はやみちのもの)」の集会所と推定される忍者屋敷です。※現時点では断言できないため、ロマンを含む記事であることを御理解ください。
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事前予約制。忍者衣装体験有り。
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井戸。
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玄関。
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お忍びします。
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入口付近。
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天井。
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梯子で天井裏を見ることもできます。高所恐怖症のため梯子は苦手ですが…
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天井裏へ。
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ここにも仕掛けがあるようです。
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なお、内部の写真については色々と撮ってはいますが、ロマンも含むため説明も難しいところです。よって当記事では写真のみでお楽しみ下さい。とはいえ、写真では伝えにくい部分がたくさんあります。特に隠し空間とか。
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よって詳細については現地に訪れて、実際に見て感じて楽しむのがいいかと思います。建物内部についてはとても詳しく解説してくれます。饒舌な方で、その知識もさることながら、色々と楽しく案内してくれますよ。
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鶯張り、隠し空間、隠し部屋、屋敷の外を見張ったのぞき穴、トリカブトを干した釘など様々なものが残されていますが、これらが本当にそのような機能を果たしていたものかどうかは…現時点ではやはりロマンです。ロマン凄く大事!歴史は常に塗り替えられます。
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裏側の高低差には凄い違和感を覚えました。
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解説ではここでトリカブトを育てていた可能性について説明していましたが、私の頭の中では「あれっ?ここってこんなに高低差ありましたっけ!?うん!?かつての茂森山の規模ってどこからだっけ?」って感じでした。もちろん流暢な解説を邪魔してまで質問はできませんでした笑
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話は変わりますが、この忍者屋敷は維持管理等の問題から取り壊される予定だったのですが、市職員で弘前観光ボランティアガイドでもある佐藤光麿氏が購入し、辛うじて保存活用されることになったという経緯があります。元々地元では忍者屋敷があることは知られていたようですが、以前の所有者が増築した部分があることなどから、弘前市が文化財として購入することは難しかったようです。
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元の所有者は日本民藝協会会長會田秀明氏(義父相馬貞三氏(※青森県民芸協会を立ち上げて、その一生を民藝運動に尽くした人物)が家族と暮らすために昭和27年に買った中古物件)。
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會田秀明氏曰く「義父母の話によると、住み始めた当初は薬草の匂いが満ちていたそうです。天井下の壁にずらりと並ぶ釘に、薬草を干したのでしょう。家の裏はやぶに覆われた急斜面で、日本固有の植物があると専門家に言われたことも。30年前から空き家となっていますが、知られざる歴史の詰まった場所です。」とのこと。
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清川繁人氏(青森大学薬学部教授、日本初の忍者部顧問)曰く「幕末の古地図を見ると、忍術を伝承した棟方家が管理していた家と考えられます。住まいと言うよりも寄り合いに使用していた可能性が高いですね。すぐ隣が藩の道場ですから、足軽と同等の下級藩士であった早道之者たちが互いに連絡を取り合った場所なのではないでしょうか。」とのこと。また、會田秀明氏は昭和27年に購入した義父から忍者屋敷と聞いており、清川教授が古地図や古文書から歴代の所有者が早道之者に関わりのある人物であることを確認。※棟方家…棟方嘉吉(早道之者の頭目でもあった棟方貞敬(晴吉)の近親者)
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さて、弘前藩には江戸中期から明治3年まで約200年もの間、早道之者という身分が保障された忍者部隊が存在していたといいます。早道之者は、領内の治安維持、敵対する南部藩との境界の監視や北方警備、薬草の収集や管理など多様な任務に当たっていたといいます。この建物はそのような危険な業務に当たっているため、身を素早く隠せる空間など防護的な造りにしたと推測されています。
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早道之者の結成は寛文9年(1669)にアイヌの首長が松前藩に対して蜂起したシャクシャインの戦い。この反乱以降、蝦夷地でアイヌと松前藩の動きを監視するために延宝元年(1673)津軽4代藩主信政公によって江戸より雇われた甲賀忍者(中川小隼人ら甲賀系中川流(又は小隼人流、中川隼人流))が、後の早道之者の頭領となりました。
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早道之者は杉山吉成(石田三成の次男石田重成の長男)によって結成。杉山家は代々早道之者を統率し、蝦夷地の調査や監視活動を指揮したとされます。他藩の隠密組織は平和な世で衰退・自然消滅していきましたが、早道之者は明治初期まで諜報活動を行っていました。
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明治期まで活動した忍者は全国でも稀であり、弘前藩が残した分限元帳には約60名の名簿も確認できるそうです。
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清川繁人氏によりますと、早道之者の詰所は移転を経て享保20年(1735)頃に現在地に移ったとされます。一度は解散して屋敷は取り壊されましたが、5年後に再結成された際に再建。現在の建物が当時のものかは未だ不明ですが、江戸時代末期の建立とされることから早道之者の詰所と推定。
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ってことで、忍者屋敷を写真で伝えることはやはり難しかったので…
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是非とも現地で楽しんでくださいね。
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