秋田県北秋田市綴子糠沢上谷地。

参道石段。

石灯籠一対。横の自然石は何か不明。


石碑は石燈籠奉納碑(昭和34年秋吉日建立)

狛犬一対(昭和58年7月18日建立、出川喜惣治82才・ノヱ77才)


当神社の由緒等についてはわかりませんでした。

旧糠澤村の鎮守社です。例祭日旧3月15日。御祭神は八幡大神(応神天皇)。


江戸期以降の糠沢村についてです。秋田郡北比内のうち。秋田藩領。当初は黒印村として認定。村肝煎は山内惣右衛門家。久保田給人古内氏らの知行下に置かれ、周辺の開発が推進。慶長8年、糠沢川上流の大畑・岩谷の他、米代川対岸部に開村された黒沢開(向黒沢)村も枝郷として順次枝郷を拡大。享保郡邑記では、糠沢川沿いの大畑・二本杉・岩谷・一通及び綴子川上流山間部の小田・田子ケ沢・松原、平野部の糠沢羽立・堤羽立の9か村を枝郷と記載。戸数は93軒(うち枝郷分84)。北方山本郡(寛文4年まで檜山郡)との郡境を画すまでの広大な山林は、糠沢山の名称のもとに藩の御直山・留山に指定。元文5年六郡当高帳に糠沢村当高281石余とあります。この年の前後に地方給人古内氏は古田の起返しを計画し、当地をすでに草刈場としていた綴子村と対立。宝暦3年に村困窮のため綴子村の枝郷となります。村鎮守八幡社のほか、来歴不明の宝珠庵があり円空作木造阿弥陀如来像を安置。※以上が村勢ですが、正保国絵図、元禄七郡絵図に図示されず、享保黒印高帳でも村高は綴子村に既に含められていたとみられ当村名は不記載。羽州街道の整備により、津軽藩本陣や宿駅場設置で重視された綴子村本郷を中心にして当地域一帯が把握されていたことと関係があると推定。寛政村附帳以後の藩側の台帳には枝郷名として記載。現在は小字及び集落名として地名をとどめています。

拝殿内。

幣殿・本殿覆屋。

神厩舎。

御神馬。結構リアル。
山神(昭和8年9月13日※建立者名省略)



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